「明菴栄西」の版間の差分

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文治5年(1189年)、虚庵懐敞に随って[[天童山]][[景徳寺]]に移る。そして虚庵懐敞より[[菩薩戒]]を受ける。
 
[[建久]]2年([[1191年]])、虚庵懐敞より臨済宗黄龍派の[[嗣法]]の[[印可]]を受け、「明菴」の号を授かる。同年、帰国。九州の福慧光寺、千光寺などで布教を開始。また、帰国の際に宋で入手した[[茶]]の種を持ち帰って[[肥前国|肥前]][[霊仙寺跡|霊仙寺]]にて栽培を始め、日本の貴族だけでなく武士や庶民にも茶を飲む習慣が広まるきっかけを作ったと伝えられる。
 
建久5年([[1194年]])、禅寺[[感応寺 (出水市)]]を建立。[[大日房能忍]]の禅宗も盛んになるにつれ、延暦寺や興福寺からの排斥を受け、能忍と栄西に禅宗停止が宣下される。建久6年([[1195年]]) [[博多]]に[[聖福寺 (福岡市)|聖福寺]]を建立し、日本最初の禅道場とする。同寺は後に[[後鳥羽天皇]]より「'''扶桑最初禅窟'''」の扁額を賜る。栄西は自身が[[真言宗]]の[[印信]]を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った。