「日宋貿易」の版間の差分

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== 歴史 ==
=== 平安時代 ===
[[960年]](日本の[[天徳 (日本)|天徳]]4年)に成立した[[北宋]]は、貿易を振興する目的で各地に[[市舶司]]を設置し、日本、高麗との貿易や[[南海貿易]]を行った。日本では遣唐使停止([[894年]])の後[[大宰府]]の統制下で[[日唐貿易]]、[[鴻臚館]]貿易が行われた。[[1019年]]([[寛仁]]3年)の[[刀伊の入寇]]の頃から太宰府権能の衰微が始まる。日宋間の正式の外交貿易は行われず、一般人の渡航は表向き禁止されたが、宋の商人は主に博多や薩摩坊津、越前敦賀まで来航し、私貿易が盛んに行われていた。
 
『[[宋史日本伝]]』([[1345年]]編纂、10世紀頃の史伝)には次のような一文がみえる。
 
{{Quote|天聖四年十二月明州言 日本國大宰府遣人貢方物而不持本國表詔之其後亦未通朝貢南賈時有傳其物貨至中國者|||宋史・卷四九一・外國伝・日本國}}
 
[[1126年]](日本の[[大治 (日本)|大治]]元年)に発生した[[靖康の変]]、それに伴う[[南宋]]の成立は、日宋貿易にも影響を与えることになった。[[華中]]・[[華南]]の経済的発展に加えて、[[金 (王朝)|金]]の支配下に入った[[華北]]・[[中原]]から逃れてきた人々の流入に伴う南宋支配地域の急激な人口増加によって、山林の伐採に伴う森林資源の枯渇や疫病の多発などの現象が発生した。前者は南宋における寺院造営や造船、棺桶製作のための木材を[[周防国]]などの日本産木材の大量輸入でまかなうことになり、[[阿育王寺]]舎利殿の造営には[[東大寺]]再建で知られる[[重源]]が、[[天童寺]]千仏閣再建には[[臨済宗]]を日本に伝えた[[栄西]]が日本産木材を提供している。後者は南宋における[[漢方医学]]の発展を促して最新の医学知識や薬品が日本へと伝えられることになり、鎌倉時代後期のことになるが[[梶原性全]]が宋の医学書を元に『[[頓医抄]]』を編纂し、[[吉田兼好]]が『[[徒然草]]』(120段)の中で「唐の物は、薬の外に、なくとも事欠くまじ」と述べているのは、裏を返せば日宋貿易なくして日本の医療が成り立たなかったことを示している<ref>岡元司『宋代沿海地域社会史研究』(汲古書院、2012年)所収、「疫病多発地帯としての南宋期両浙路」(原論文:2009年)「南宋期浙東港湾諸都市の停滞と森林環境」(同:1998年)「周防から明州へ」(原論文:2006年)、「環境問題の歴史から見た中国社会」(同:2008年)各論文参照</ref>。
 
[[国司|越前守]]でもあった[[平忠盛]]は日宋貿易に着目し、後院領である[[肥前国]]神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して[[院近臣|近臣]]として認められるようになった。[[平氏政権]]が成立すると、平氏は勢力基盤であった[[伊勢国|伊勢]]の産出する[[水銀]]などを輸出品に貿易を行った。[[平治の乱]]の直前の[[1158年]]([[保元]]3年)に[[大宰大弐]]となった[[平清盛]]は、日本で最初の人工港を[[博多]]に築き貿易を本格化させ、[[寺社勢力]]を排除して[[瀬戸内海]]航路を掌握した。また、航路の整備や入港管理を行い、宋船による[[厳島神社|厳島]]参詣を行う。

[[1173年]]([[承安 (日本)|承安]]3年)には[[摂津国]][[福原京|福原]]の外港にあたる[[大輪田泊]](現在の[[神戸港]]の一部)を拡張し、3月に正式に国交を開いて貿易振興策を行う。こうした流れの中で[[渡海制]]・[[年紀制]]などの律令制以来の国家による貿易統制も形骸化していった。一方で、[[宋銭]]の大量流入で貨幣経済が発達し物価が乱高下するようになったり、唐朝滅亡以来の異国に対する社会不安なども起こっている。
 
[[1199年]](日本の[[建久]]10年)7月、高麗と日本の商人に対し銅銭の交易制とされた<ref>『宋史』卷37, 寧宗紀 慶元五年秋七月甲寅条</ref>。
 
=== 鎌倉時代 ===