「花井吉成」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
参考文献の追加、その他。
1行目:
{{基礎情報 武士
{{出典の明記|date=2017年12月20日 (水) 08:09 (UTC)}}
| 氏名 = 花井 吉成
| 画像 = <!-- 画像ファイル名 -->
| 画像サイズ =
| 画像説明 = <!-- 画像の説明文 -->
| 時代 = [[江戸時代]]
| 生誕 = 不詳
| 死没 = [[慶長]]18年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]([[1613年]][[9月25日]]))
| 改名 =
| 別名 = 三九郎
| 諡号 =
| 神号 = 花井遠江守吉成之命
| 戒名 = 摩尼宝殿覚月照徹大禅定門
| 霊名 =
| 墓所 = 西念寺 ([[長野市]][[松代]])
| 官位 = 遠江守
| 幕府 =
| 主君 = [[松平忠輝]]
| 藩 =
| 氏族 = [[松下氏]]
| 父母 =
| 兄弟 =
| 妻 = 於八
| 子 = [[花井義雄]]、[[花井義賢]]、[[花井義房]]娘2人
| 特記事項 =
}}
'''花井 吉成'''(はない よしなり、? - [[慶長]]18年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]([[1613年]][[9月25日]]))は、[[江戸時代]]初期の武将。[[松平忠輝]]の[[家老]]。通称三九郎、後に松平遠江守の名を許される。室は[[徳川家康]]の側室[[茶阿局]]の前夫との子於八(忠輝の異父姉)。子に娘([[村上忠勝]]室)、娘([[大久保長安]]六男の大久保権六郎(右京長清)室)、玄芳院(服部仲保後妻)、[[花井義雄]]([[主水正]]、よしたけ)、[[花井義賢]](のちに松下に復姓)、[[花井義房]]。
 
[[三河国]]東部に[[松下氏]]傍流の家に生まれる。若くして[[徳川家康]]の近習として仕えた。関東転封([[1590年]])の直前、家康が[[遠江国]]での鷹狩で見初めた茶阿には当時3歳になる娘(於八)がおり、これを後に妻とした。[[慶長]]8年([[1608年]])、家康の命により家康と茶阿の子である六男の[[松平忠輝|忠輝]]が、[[川中島藩]]主・[[松代城|海津城]](のちの松代城)城主となりその家老となる。慶長15年([[1610年]])に忠輝は加増され、[[越後国]][[高田藩]]主となったが、松代を含む北[[信濃国|信濃]]四郡もそのまま領したので、吉成が城代を務めた。吉成父子は[[北国街道]]の改修や、[[裾花川]]の瀬直しおよび[[善光寺平用水]]の改修や、[[犀川 (長野県)|犀川]]より[[長野盆地|川中島平]]へ用系の上堰・中堰・下堰引き開削し水田開発をするなどの政策を行った。そしと伝承されいるが明確な資料はない。これらの土木事業は領民に感謝され、今でも[[花井神社]]として祀られている。
* 慶長19年([[1614年]])松平忠輝配下の海津城主の花井吉成に宛がい[[与力]]分として6千石が与えられた中に桑原村、若宮村、内川村の名が見られる。他に[[更級郡]]の四ツ屋村、二柳村、とふくじ(東福寺)村、今井村、[[水内郡]]のなかごい(中越)村、[[高井郡]]の沼目村が列記されている(花井家文書)。
 
慶長18年([[1613年]])8月21日に死去、法名は摩尼宝殿覚月照徹大禅定門。墓所は[[長野市]][[松代町 (長野県)|松代町]]松代の西念寺。吉成の没後、子の義雄が待城の城代となり、父の遺領を引き継いだほか慶長19年には忠輝より[[長野盆地|善光寺平]]の9ヶ村の知行を与えられている。しかし[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])1月21日の[[徳川家康]]没後数ヶ月の後、改易に処され[[茨城県]][[笠間市|笠間]]に配流された。後に[[高崎市|高崎]]に移されている。
 
==参考文献==
*長野市誌編さん委員『長野市誌』第三巻、長野市、2001年。
 
==関連項目==
*[[松平忠輝]]
*[[善光寺平用水]]
*[[上堰]]
*[[中堰]]
*[[下堰]]
 
==外部リンク==
[http://www.nagano-jinjacho.jp/shibu/01hokusin/07sarashina/11007.htm 花井神社 - 長野県神社庁]
 
{{DEFAULTSORT:はない よしなり}}