「小金牧」の版間の差分

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=== 捕込 ===
迅速測図では、十余二の西、柏・流山市境に、'''古込'''の捕込跡がある。安田論文』1958)掲載の平面図によると、広義の捕込はほぼ正方形で、東半分が長方形の狭義の捕込、西半分のさらに北半分が溜込、南半分が分込である。[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]](以下、TX)際の墓地に当る。捕込内部の区画は1949年の空中写真で明瞭に、1961年でもある程度認められる一方、すでに1928年測図の地形図で、捕込の土手内に墓地の記号があり、捕込内部の土手が残る状態で墓地になったことを示す。したがって、墓の移動がなければ、墓地内の区画割がかつての捕込内の土手の位置を反映している。墓地の南東の一部はTX建設に伴う道路工事によって削られた。旧高田村北の台地は高田台であり、上野牧からは谷津を隔てた回り道になるが、直線距離では近く、『旧事考』の上野牧の捕込があるという高田台に地名は一致する。千葉県立中央博物館の白井豊<ref name="shirai">[http://hist-geo.jp/pdf/040/049/233_001.pdf 下総台地西部の牧とその周辺における薪炭林化](白井豊
2007)</ref>は高田の字古込後を示している。
 
『旧事考』にある大青田牧、別の捕込、'''新込'''が大青田近くにあった事を示す。大青田はすでに新田であったため、大青田に隣接した十余二伊勢原辺りが該当する。明治期には、十余二南部は高田原と呼ばれていた<ref name="jin"/>。この捕込は、『鎌ヶ谷市計画書』<ref name="kamap"/>収録の寛政期の地図にある2つの捕込のうちの北の捕込と一致する。大青田の北西に馬場の字があり、『牧跡』<ref>掲載地図は低水準は低いが古文書等の掲載資料は有用。地図の水準の根拠は他の脚注参照。</ref>掲載の『小金上野高田台両御牧大凡図』には、十余二伊勢原から十余二西を経て、みどり台となった辺りに高田台新込とあるため、新しいが痕跡が残らなかった捕込に当たる。『小金上野高田台両御牧大凡図』と『鎌ヶ谷市計画書』の地図によると、柏市西原の東、柏市の突出部の付け根、みどり台の西、ヨークマートの東付近に相当する{{refnest|group="注釈"|『牧跡』の推定は約1キロメートル東で掲載地図と矛盾、上野牧の一部が十余二の一部である柏市西原になったとする記載があり、公文書を含めた信頼できる資料に反する。}}。白井豊<ref name="shirai"/>は青田新田の字捕込後を示している。『柏市郷土資料室』の推定も同様であるが、地点までの特定は難しい。『旧事考』の上野牧の捕込としても矛盾はない。
 
また、高田村の近く柏市庚塚付近には、1930年頃の地形図でも三角形の捕込の土手が確認でき、戦後の空中写真でも土手の一部の残存が判る。
前掲『教育史』<ref>p431</ref>に、1872年の三井学校設立の場所は、十余二伊勢原(トリゴメ)とあり、上野牧と同様、トリゴメと発音されていた事が示唆される。また、1879年頃伊勢原中央の地に校舎を建築したが、『教育史』発行時の1937年には跡が吉田農場の事務所としている。『東葛飾郡誌』<ref>中部町村誌田中村誌教育</ref>に三井小学校は三井尋常小学校と改名した後廃止、十余二尋常小学校を設置、田中村への併合時に田中尋常小学校十余二分教場となったとある。この間の地形図では、現在の柏市立十余二小学校付近以外に学校の記載はなく、同校付近が移転先の伊勢原中央であることを示す。現在の伊勢原一丁目から1キロメートル未満の距離に当たる。
 
前掲『教育史』<ref>p431</ref>に、1872年の三井学校設立の場所は、十余二伊勢原(トリゴメ)とあり、上野牧と同様、トリゴメと発音されていた事が示唆される。また、1879年頃伊勢原中央の地に校舎を建築したが、『教育史』発行時の1937年には跡が吉田農場の事務所になったとしている。『東葛飾郡誌』<ref>中部町村誌田中村誌教育</ref>に三井小学校は三井尋常小学校と改名した後廃止、十余二尋常小学校を設置、田中村への併合時に田中尋常小学校十余二分教場となったとある。この間の地形図では、現在の柏市立十余二小学校付近以外に学校の記載はなく、同校付近が移転先の伊勢原中央であることを示す。現在の伊勢原一丁目から1キロメートル未満の距離に当たる。
 
=== 地誌 ===