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[[ファイル:Cai-lun.jpg|thumb|200px|蔡倫]]
'''蔡 倫'''(さい りん、[[50年]]? - [[121年]]?)は、[[後漢]]の[[宦官]]。[[字]]は'''敬仲'''。現在の[[湖南省荊州]][[桂陽郡]][[耒陽市|耒陽県]]に生まれた。
 
後漢は[[外戚]]と[[宦官]]の間で国家権力掌握を激しく争ったが、[[鄭衆 (宦官)|鄭衆]]と蔡倫はその初期の人物である。
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== 生涯 ==
後漢の[[明帝 (漢)|明帝]]の[[永平 (漢)|永平]]末年([[75年]])から宦官として宮廷に登用された。[[章帝 (漢)|章帝]]時期には位の低い小黄門であったが、[[和帝 (漢)|和帝]]即位後の89年には[[中常侍]]にまで登り詰めた。さらに誠実な人柄や学問や工作を好む点、また潔癖な身の振る舞いが評価され、97年には尚方令という役職を得た。これは剣などの武器類やさまざまな品物の製作監督や製造技術確立を任務とした。
 
[[元興 (漢)|元興]]元年([[105年]])、蔡倫は樹皮・麻クズ・破れた魚網などの廃棄物の材料を用いて紙を製造し、これを和帝に献上した。蔡倫の作った紙は優秀であったため、「蔡侯紙」と呼んで皆が使用した。従来、文章を記すのには[[竹簡]]、または[[絹織物]](縑帛‐けんばく)製のもの(蔡倫以前はこれを「紙」と呼んだ<ref>[[s:zh:說文解字/13#糸部|『説文解字』糸部]]「紙、絮一苫也。」</ref>)があったが、竹簡は重く、「紙」は高価であるという欠点があった。
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蔡倫は和帝から厚い信頼を得、帷幄(いあく、国家計画を立案する重要な機関)にも加入し、しばしば諫言を奏上したともあった。また、儒者の[[劉珍 (漢)|劉珍]]などによる古典の校正作業を監督するなど、有能な[[文人]]臣下としての能力を発揮した。
 
しかし、蔡侯紙を献上した105年に和帝が没した。幼くして帝位を継いだ[[殤帝 (漢)|殤帝]]も1年で亡くなり、当時政治の実権を握っていた太后の[[鄧綏]]は、章帝の[[皇太子]]たる地位を廃され清河孝王となった[[劉慶 (清河王)|劉慶]]の、当時13歳の息子劉祜を[[安帝 (漢)|安帝]]として擁立した。太后は摂政として、[[外戚]]と宦官を併用しつつ実権を握った。このような時期の114年、蔡倫は竜亭侯に封ぜられた。
 
権勢を振るった太后が121年に亡くなると、安帝は宦官の協力を得て鄧氏一族の粛清を実行に移した。計画が着々と進む中、安帝はまた父劉慶が皇太子を廃された理由を調査し、祖母宋貴人が巫蠱の[[呪術|呪詛]]をしたという讒言により自殺に追い込まれたと突き止めた。そして、当時(82年)宋貴人の呪詛が事実であると報告をしたのが小黄門であった蔡倫だった。安帝は蔡倫に廷尉(刑罰担当長官)への出頭を勅命した。[[士大夫]]は礼を守り刑には及ばない(『礼記』)という考え方があり、廷尉出頭の勅命を帯びた使者は[[毒薬]]とともにこれを伝えるのが慣例であった。蔡倫もこれに従い、沐浴し衣服を整え、毒を飲んで死んだ。蔡倫が死亡した年月は諸説あるが、少なくともそれは太后が死亡した121年以降と考えられる。