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ドイツ騎士団の修道士と学者は古プロイセン人が使う言語に対して多大な興味を持ち、それを記録しようとした。加えて、古プロイセン人と意思疎通する必要もあった。こうした経緯で[[古プロシア語|古プロイセン語]]の若干の記録が残されている。ガリンディア語やスドヴィア語が含まれているが、これらの記録が西バルト語族について残されている記録の全てである。[[ゲルマン祖語]]と類似性を示す、非常に古風なバルト語である。古プロイセン語は、ゲルマン語 / バルト語 / スラブ語の共通語がかつて存在したという理論を支持するように思われる<ref>Encyclopedia Britannica - Article: "Baltic languages", May 2004, Encyclopedia Britannica Inc, ISBN 978-0852290668,</ref>。
 
ドイツ騎士団は、15世紀の間に[[ポーランド・リトアニア合同|ポーランド・リトアニア連合]]との戦争で徐々に弱体化した。多額の戦争賠償金により、騎士団国家は債務負担と増税で経済は悪化した。プロイセン人は、[[1440年]]反ドイツ騎士団の[[プロシア連合イセン同盟|プロイセン連合]]を結成しポーランド王に支援を求めた。1454年(十三年戦争)でプロシア連合側は勝利した。
 
[[宗教改革|プロテスタント宗教改革]]の時代、[[1525年]]、騎士団総長[[アルブレヒト (プロイセン公)|アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハ]]は、騎士団領を世俗化してポーランドの封建家臣となり、プロイセンは[[プロテスタント]]([[ルーテル教会|ルター派]])の[[プロシア公領]]になった。古プロイセン人は再び反乱を起こしたが、ドイツ政府によって鎮圧された。[[宗教改革]]の時代には、プロイセン公領で公式に、ポーランド領プロイセンでは非公式にルター派の影響力は拡大した。ヴァルミアではカトリックが残った。プロテスタント改宗後、礼拝の言語はラテン語に代わり自国となった。アルブレヒトは教義問答を古プロイセン語に翻訳した。
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* [[東プロイセン]]
* [[西プロイセン]]
* [[プロシア連合イセン同盟]]
* [[プロシア公領]]
* [[ポーランド王領プロシア]]