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'''正閏論'''(せいじゅんろん)とは、[[中国]]及び[[漢字文化圏]]において、王位の[[正統性]]がどの王朝にあったかについての議論である。ここでの『[[閏]]』は「うるう」ではなく「[[異端]]」という意味であり、「[[平年]]ではない余り物」から派生して「正統ではない余り物」も意味するようになった。閏日や閏月は一年のうちではあるが、閏月は一月から十二月までの正規の月と区別して「閏八月」のように呼ばれるため、それに擬えた語である
 
== 概要 ==
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中国においては[[漢]]代に[[殷]]・[[周]]と続いた後の[[秦]]を正統とせず漢は周を受け継いだものとしたのが最初で、[[三国時代 (中国)|三国時代]]・[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]などの分裂期のたびに「どの王朝が正統でどの王朝が閏統であるか」が後世の歴史家によって議論された。「天に二日なく、地に二王なし」との「[[礼記]]」の記述から「本来[[皇帝]]はただ一人であるから、過去の複数の皇帝が居た時代においてもどれか一つの皇帝を正統として歴史書を記すべきである」という思想が支配的であったためにこのような議論が起こったもので、たとえば三国がともに皇帝を名乗った三国時代の歴史を書いた[[陳寿]]は、[[魏]]の皇帝のみを列伝ではなく本紀に収録し、その死も魏の皇帝のみに「[[崩御|崩]]」の文字を用いて魏を正統として扱っている。
 
最初に秦を正統としない議論が出たことでもわかるように、近代国家の正統政権についての議論とは異なり、分裂している時代に限った議論ではなく天下を統一したからといって正統と認められるとは限らない<ref>近代国家であれば「[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]と[[ドイツ連邦共和国|西ドイツ]]はどちらが正統政権か」という議論はあっても統一政権について正統性が問題になることはドイツの[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]政権のような場合を除いては普通ない。</ref>。[[明]]の[[方孝孺]]のように百年間統一王朝として続いた[[元 (王朝)|元]]を[[夷狄]]として正統から外した例もある<ref>[[内藤湖南]]「支那史学史」2巻P37、[[平凡社東洋文庫]]</ref>。また、[[朱熹]]が[[資治通鑑綱目]]で「南北朝時代と[[五代十国]]については無統」としたように、[[無政府状態]]でもない時代について「この時代には正統王朝がない」とすることもありうる。<!--「過去の王朝の中でどの王朝を正統とするか」というのは多くの学者が議論しており、[[内藤湖南]]は『支那史学史』において、[[王夫之]]が正閏の議論を批判したことに触れ、「支那人には珍しい通達の論」としている<ref>[[平凡社東洋文庫]]、310頁</ref>。-->
 
=== 日本 ===
[[日本]]では同時に二人の[[天皇]]が存在した[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]について、[[南朝 (日本)|南朝]]([[大覚寺統]])と[[北朝 (日本)|北朝]]([[持明院統]])のどちらを正統とするかという議論が盛んにおこなわれた([[南北朝正閏論]])。また、[[朱子学]]の正閏の基準として立てられた「簒臣、賊后、夷狄は正統とせず」(謀反人、女性、異民族は正統としない)という議論は、[[山崎闇斎]]ら日本の儒学者によって、「それならば中国史上の創業の君主はみな謀反人ではないか、[[神武天皇]]以来[[万世一系]]の日本に中国は政権の正統性で遠く及ばない」という議論に結び付けられ、[[尊皇思想]]や[[皇国史観]]につながっていくことになった<ref>[[山本七平]]「現人神の創作者たち」[[文芸春秋]]、1997年、P81</ref>。
 
== 脚注 ==