「カール14世ヨハン (スウェーデン王)」の版間の差分

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1797年10月18日、[[カンポ・フォルミオの和約]]の締結によって[[第一次対仏大同盟|第1次対仏大同盟]]は終焉したことで、イタリア方面軍は再編されることになり、ベルナドットの第4師団も解体を余儀なくされる<ref>Barton, Dunbar Plunket (1930). P.66</ref>。ライン方面軍時代からの付き合いの兵もおり、家族のように愛着を感じていたためベルナドットは強く抵抗したがナポレオンは取り合わなかった<ref>Barton, Dunbar Plunket (1930). P.67</ref>。その後総裁政府はベルナドットを[[ケルキラ島]]司令官に任命したが、バラスはナポレオンが共和政を覆すことを危惧し、勢力を相殺する対抗馬としてベルナドットをイタリア方面軍総司令官に任命した<ref>Palmer, Alan(1990). P.60−61</ref>。ベルナドットはこの決定を喜んだが、ナポレオンは彼が後任になる事を快く思わず、代わりに[[ウィーン]]駐在大使に任命させようと外務大臣の[[タレーラン]]に働きかけた<ref>Palmer, Alan(1990). P.61</ref>。
 
1798年1月11日、ベルナドットはウィーン駐在フランス大使に任命される。この時代、外交官は実入りの良い地位だとみなされていたが、ベルナドット本人はこの人事は追放同然だとして不満に感じていたという<ref>Palmer, Alan(1990). P.62,69</ref>。3月2日、彼が[[神聖ローマ帝国]]皇帝[[フランツ2世]]に拝謁した際には、皇帝本人にもオーストリア宮廷にも良い印象を与えている<ref>Palmer, Alan(1990). P.64</ref>。しかしながらフランス革命以降、オーストリアとフランスは積年の敵同士であり、オーストリア政府は前年の和約による平和も永くは保たないと考えていた<ref>Höjer, Torvald(1939). P.139</ref>。ベルナドットはオーストリア警察に見張られており、彼にとってウィーン滞在は心地の良いものでは無かった。4月13日、大使公邸の外に共和国の標章を掲げていないことを総裁政府に譴責されたため、『自由』『平等』『友愛』の標語が記された三色旗を掲げたところ、怒りに駆られたウィーン市民によって公邸が襲撃される事態に発展してしまう<ref name="The American Cyclopædia 1879">The American Cyclopædia (1879)/Bernadotte, Jean Baptiste Jules</ref>。群衆は公邸の窓を破壊し、三色旗を破り、火をつけて燃やした<ref>Palmer, Alan(1990). P.66-67</ref>。オーストリア軍の部隊がやって来て騒動を沈静化するまで5時間かかっている<ref>Höjer, Torvald(1939). P.155</ref>。その後オーストリア側からの遺憾表明を受け取ることなく、ベルナドットは2日後にウィーンを去っている<ref>Palmer, Alan(1990). P.68</ref>。イギリス政府はこの騒動が再びフランスとオーストリア間の戦争を誘発する可能性を予想し、オーストリア支援のために[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ネルソン]]の艦隊を地中海方面に配備させるが、結局のところ事態はそれ以上大きくならず、同艦隊は[[エジプト・シリア戦役|エジプト出征]]中のフランス軍攻撃へ転用される<ref>Palmer, Alan(1990). P.70-71</ref>。
 
[[ファイル:Désirée Clary1807-Robert Lefèvre.jpg|150px|サムネイル|右|デジレ・クラリー]]