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== 戦績 ==
国内で[[キタノオー]]や[[ヘキラク]]達ライバルを相手に東京優駿、[[目黒記念|目黒記念(春・秋)]]、[[天皇賞|天皇賞(秋)]]、[[有馬記念]]等32戦20勝と活躍した後、ハクチカラは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に渡った
 
天皇賞、有馬記念ではいずれも単勝支持率が8割を超えるという圧倒的な支持に応えての優勝で、名実共に日本競馬の現役最強馬となった。しかし、古馬の最高格のレースである天皇賞と有馬記念を制したということは、すなわち、ハクチカラの名声を高める為に日本で出走するべきレースがもはや存在しないという事を、同時に意味する事でもあった(しかも、当時の天皇賞は勝ち抜け制で、優勝経験馬にはそれ以降の天皇賞への出走権が無かった)。ちなみに、後年、同様の理由で海外遠征プランを陣営が計画した馬としては[[テンポイント]]がいる。
ハクチカラが渡米した[[1958年]]5月当時は、まだ人間が飛行機に乗る事自体が高嶺の花であり、増してや馬を太平洋横断させるというスケールの長距離国際航空輸送についてのノウハウは、当時すでに航空先進国であったアメリカにもほとんど無く、日本からの輸送の際は、安全のために客席をすべて取り払った[[旅客機]](チャーター便)が用意された。しかも、これは現在のジェット機と比べれば遥かに所要時間を要するプロペラ機による太平洋横断であった([[#※(参考)ハクチカラ渡米当時の航空機事情について|※参照]])。
 
翌1958年、関係者は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]遠征を決意し、[[1958年]]5月にハクチカラを渡米させた。これは日本の競馬関係者が育成してきた競走馬が、史上初めて海外の競馬先進国と呼ばれる地域に挑戦したものとなった。
日本の空港には馬を出し入れできる[[スロープ]]がなかったため、機内に馬を入れる際にはハクチカラを入れたゴンドラを飛行機の乗り入れ口部分までクレーンで吊り上げた。風で煽られたゴンドラの位置はなかなか安定せず、ハクチカラを無事に機内に入れるまで実に3時間を要したという。またこの輸送に際しては、機長の[[拳銃]]の携帯が許可され、万一馬が暴れて馬体のみならず航空機の安全航行に危険が及ぶと判断した場合には、機長の権限として馬を射殺してもよいとされた。ハクチカラの航空機への搭乗は関係者がこれに同意する事であった為、輸送中の関係者は緊張の連続であったという。もっとも、当のハクチカラは輸送中全く落ち着いており、懸念は杞憂に終わった。
 
ハクチカラが渡米した[[1958年]]5月当時は、まだ日本間がにとっては飛行機に乗る事自体が高嶺の花であり、増してやデリケートな[[サラブレッド]]を太平洋横断させるという、この様なスケールの長距離国際航空輸送についてのノウハウは、当時すでに航空先進国であったアメリカにすらほとんど無く有していないに等しい状態であった。この事から、日本からの輸送の際は、安全のために客席をすべて取り払った[[旅客機]]チャーター便)がとして用意された。しかも、これは現在のジェット機と比べれば遥かに所要時間を要するプロペラ機による太平洋横断であった([[#※(参考)ハクチカラ渡米当時の航空機事情について|※参照]])。
 
日本の空港には馬を出し入れできる[[スロープ]]がなかったため、機内に馬を入れる際にはハクチカラを入れたゴンドラを飛行機の乗り入れ口部分までクレーンで吊り上げた。風で煽られたゴンドラの位置はなかなか安定せず、ハクチカラを無事に機内に入れるまで実に3時間を要したという。またこの輸送に際しては、機長の[[拳銃]]の携帯が許可され、万一馬が暴れて馬体のみならず航空機の安全航行に危険が及ぶと判断した場合には、機長の判断による職務権限として馬を射殺してもよいとされた。ハクチカラの航空機への搭乗は関係者がこれに同意する事であっを条件とされた為、輸送中の関係者は緊張の連続であったという。また、中央競馬の関係者も祈る様な思いでハクチカラ無事到着の報を待ったといわれる。もっとも、当のハクチカラは輸送中全く落ち着いており、懸念は杞憂に終わった。
 
ちなみにアメリカにおいても飛行機による輸送を経験したが、現地には競走馬用のスロープが用意されていたため、輸送は実にスムーズに行われた。ハクチカラに同行していた[[保田隆芳]]は競馬を取り巻く文化の違いを実感したという。
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現地での初戦、2戦目と最下位に破れ3戦目のサンセットハンデキャップで[[ギャラントマン]]の4着になるも最初の半年間は不振であった。保田隆芳が帰国した6戦目のトーナメントオブロージズ賞から好走するようになり、3着、2着、5着、4着と入着を続けついにワシントンバースデイハンデキャップで初勝利を迎える。アニサド、[[ラウンドテーブル]]らを破る快挙であり、後に大種牡馬となるラウンドテーブルを破ったためアメリカでもニュースになったほど。その後は不振が続きそのまま引退。海外での成績17戦1勝。
 
なお、アメリカでの騎乗ではいいところの無かった保田隆芳であるが、このハクチカラ遠征によるアメリカ滞在中に日本競馬史に残る、保田自身にとっても大きな転機を迎える事になった。これは当地の最新の騎乗技術、すなわち[[モンキー乗り]]を習得した事であり、帰国後はその革新的な騎乗スタイルで、当時は[[天神乗り]]が主流であった中央競馬のリーディングジョッキー争いをたちまち席巻したことはあまりにも有名である。
引退後は日本に帰国して種牡馬になったがこれといった活躍馬を出せず、今度はインドに寄贈され、ハクチカラは再度海を越える事になる。インドでは国立グニガル牧場に繋養され、トーカイドーエクスプレス(カルカッタゴールドカップ、マドラスゴールドカップ、カルカッタセントレジャー)等数頭のインドの[[クラシック (競馬)|クラシック]]ホースを出した後、1979年に26歳で死亡した(老衰)。
 
競走生活を引退後のハクチカラ日本に帰国して種牡馬になったがこれといった活躍馬を出せず、今度はインドに寄贈され、ハクチカラは再度海を越える事になる。インドでは国立グニガル牧場に繋養され、トーカイドーエクスプレス(カルカッタゴールドカップ、マドラスゴールドカップ、カルカッタセントレジャー)等数頭のインドの[[クラシック (競馬)|クラシック]]ホースを出した後、1979年に26歳で死亡した(老衰)。
 
;※(参考)ハクチカラ渡米当時の航空機事情について
:ハクチカラがアメリカ遠征を敢行した1958年5月当時は、太平洋横断線を往来する航空機はまだ[[DC-7]]を中心とするプロペラ機のみで、現在の様な[[ジェット機]]はアメリカの航空会社のものも含めてまだ就航していなかった。
:当時、日本に飛来した事のある中長距離国際線用のジェット機としては、世界初の実用ジェット旅客機であった[[イギリス]]製の[[DH106 コメット|コメット]]が存在したが、当時は連続して発生した[[DH106 コメット#金属疲労による連続事故|空中分解事故]]の対策作業の為に飛行停止中アメリカ製の[[ボーイング707]]、[[DC-8]]はいずれも営業路線への就航開始前の段階である。したがって、ハクチカラの渡米当時はそもそもプロペラ機の他に選択肢は存在しなかった(この他の中長距離ジェット旅客機としては、[[ソ連]]で[[Tu-104 (航空機)|Tu-104]]が就航していたが、当時の日本へは飛来していない)。
 
=== 年度別成績 ===