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'''ALAM'''は1903年、米国の自
まだ生まれたばかりの米国自
== 高貴なはじまり ==
1899年、[[エレクトリック・ビークル・カンパニー]]がセルデンの自
一番のターゲットは[[アレグザンダー・ウィントン]]と、彼の経営していたウィントン・モーター・キャリッジ・カンパニーだった。ウィントン社は1896年に創業開始しており、1900年には米国一の生産量を誇るまでに成長していた。業界に対して特許が効力をもつのであれば(もちろんセルデンはそう思っていた)、一番大きな会社を相手にするべきだと考えていた。
ウィントン社の防御は抗弁を通して特許の有効性を論破することに費やされ経費がかかった。1902年になってもまだ法廷ではにらみ合いが続いていた。そこでウィントンは和解を考え始める。ウィントンの悩みに答えて、他の独立系自
MMAは[[パッカード]]の[[ヘンリー・ボーン・ジョイ]]と[[オールズモビル]]の[[フレデリック・スミス]]によって結成され、二人の企業家は、彼らの立場を利用し、エレクトリック・ビークル・カンパニーを脅した。MMAはもっと安いロイヤリティを要求し、法的権限とライセンス権限を管理管轄することも要求した。さもなければ、ウィントンの法定費用は膨れ上がったことだろう。
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== 業界の優勢 ==
1903年、組織は公式にAssociation of Licensed Automobile Manufacturers(直訳では特許自
ロイヤリティは非常に低い率であったが、ALAMは契約上、自
ALAMの排除ポリシーは最後には帳消しにされることになる。[[フォード・モーター]]が1903年創業し、[[ヘンリー・フォード]]はすぐにセルデンのライセンスを入手しようとした。フォードは入会を断られる。公式には、過去2回の自
ALAM参加を否定されたということは、自
1903年10月22日、ALAMはフォード・モーター・カンパニーに対し訴訟を起こす。そして引き続いてみにくい広報宣伝合戦が繰り広げられた。ALAMはフォード車を購入した人まで訴訟対象となるとしてキャンペーンを張る。フォードもこれをやり返し、「この技術は進歩しつづけてきたし、現時点でもさらに進歩しつづけている。たとえセルデン氏がこの世に生まれてこなかったとしてもだ。我々はそのように考えている。」と自身の立場を述べている。
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1909年9月15日、ホー主判事はセルデン特許の正当性を認める判決を下した。しかしながら、1年4ヶ月後の1911年1月9日の法廷では、セルデンの正当性を認めながらも、その範囲を厳格に適用した。セルデンの特許は[[2サイクルエンジン]]のみに適用され、当時すでに主流だった[[4サイクルエンジン]]には適用されないとした。この結果、判定は覆(くつがえ)り、審判はフォードに味方した。ALAMはこの判定を控訴しなかった。
セルデンライセンスの為に結成されたALAMはその役割を変え、この年、Automobile Board of Tradeとなり、1913年、National Automobile Chambers of Commerceとなる。1915年、メンバー各社間でのクロス・ライセンスの契約を締結。1922年には、AMA(Automobile Manufacturers Association:[[米国自
フォードと同時期、パナール・ルバッソールも訴訟を受けている。
ALAMは自
== リファレンス ==
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* Lacey, Robert. ''Ford: the Men and the Machine'', Little Brown and Co; ISBN 0-7581-0626-2
[[Category:自
[[Category:アメリカ合衆国の組織|あらむ]]
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