「源範頼」の版間の差分

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8月2日、範頼は頼朝への忠誠を誓う[[起請文]]を頼朝に送る。しかし頼朝はその状中で範頼が「源範頼」と源姓を名乗った事を過分として責めて許さず、これを聞いた範頼は狼狽した。10日夜、範頼の家人である当麻太郎が、頼朝の寝所の下に潜む。気配を感じた頼朝は、[[結城朝光]]らに当麻を捕らえさせ、明朝に詰問を行うと当麻は「起請文の後に沙汰が無く、しきりに嘆き悲しむ参州(範頼)の為に、形勢を伺うべく参った。全く陰謀にあらず」と述べた。次いで範頼に問うと、範頼は覚悟の旨を述べた。疑いを確信した頼朝は、17日に範頼を[[伊豆国]]に流した(『[[吾妻鏡]]』)。
 
8月17日、伊豆国[[修禅寺]]に幽閉される。『吾妻鏡』ではその後の範頼については不明だが、『保暦間記』『[[北條九代記]]』などによると誅殺されたという。ただし、誅殺を裏付ける同時代の史料が無い(例えば、『吾妻鏡』に範頼の最期に関する記載が無い)ことや子孫が御家人として残っていることから後述のような異説の背景になっている。ちなみに、『保暦間記』の成立は14世紀半ば(1356年以前)、『北條九代記』の成立も14世紀頃(原本は京都大学所蔵の『鎌倉年代記』(1331年頃成立し、後に増補)であると思われるが、体裁はかなり異なる)とされている為、同時代の史料とは言い難い
 
8月18日には、範頼の[[家人]]らが館に籠もって不審な動きを見せたとして結城朝光、[[梶原景時]]父子、[[仁田忠常]]らによって直ちに討伐され、また20日には曾我兄弟の同腹の兄弟である原小次郎(北条本『吾妻鏡』や『[[曽我物語]]』では「京の小次郎」)という人物が範頼の縁座として処刑されている。