「白乃波寿洋」の版間の差分
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== 来歴 ==
幼い頃から相撲を始め、小学、中学、高校と全国大会に出場する活躍を見せた。[[
[[日本大学]]相撲部の同期には[[里山浩作|里山]]、[[豊真将紀行|豊真将]](1年で退部)がいる。学生相撲では怪我もあり[[幕下付出]]の資格を得ることができなかったが、[[全国学生相撲選手権大会]]では準優勝の成績を残した
大学4年生の冬に里山と共に、同郷で中学・高校・大学の先輩に当たり、目標にしていた元[[小結]][[濱ノ嶋啓志|濱ノ嶋]]が所属する三保ヶ関部屋に入門。[[2004年]]3月場所に[[前相撲]]から初土俵を踏んだ。
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首に怪我を抱えているため頭から当たることができず、膝にも古傷を抱えているが、立合いの速さを利して一気に前に出る相撲に鋭さがあり、[[序ノ口]]から[[三段目]]までそれぞれ1場所で通過し、[[幕下]]に昇進した2004年11月場所でも優勝を果たし(この間本割21連勝を記録。三段目では7戦全勝ながら優勝決定戦で[[嘉風雅継|大西]]に敗れ優勝を逃している)、一気に幕下上位まで番付を上げた。初土俵からの負け越しは[[2005年]]3月場所のみでそれ以外の場所では勝ち越しを続け、同年5月場所では西幕下6枚目で5勝2敗とし、東十両12枚目で5勝10敗と大きく負け越した[[須磨ノ富士茂雄|須磨ノ富士]]との比較で[[十両]]昇進がなるかと思われたが、翌7月場所では須磨ノ富士が十両に残留し、自身は東幕下筆頭に留められた。その7月場所では4勝3敗と勝ち越し、翌9月場所に同じ尾上部屋の[[把瑠都凱斗|把瑠都]]と同時に新十両に昇進した。前相撲からの所要9場所での十両昇進は史上5位タイのスピードであったものの、把瑠都が同時に所要8場所での十両昇進を果たしたためあまり話題とはならなかった。
初の十両となった2005年9月場所は8勝7敗と勝ち越したが、翌11月場所前に[[横綱]]・[[朝青龍明徳|朝青龍]]との稽古で古傷の首と膝を痛め、場所中には中日の
2009年7月場所において再び負傷して途中休場し、翌9月場所では出場したものの前場所に引き続き途中から休場した。
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2010年3月場所では西十両12枚目の位置で2勝12敗1休の成績に終わり、翌5月場所に幕下に陥落した。その後3場所連続で負け越し(9月場所では0勝2敗5休)、[[三段目]]陥落の正念場である幕下58枚目で迎えた11月場所でようやく5勝2敗の成績を収めるものの、以降、引退まで十両への復帰を果たすことはできなかった。
2011年4月1日、[[大相撲八百長問題]]に関する相撲協会臨時理事会の結果、引退勧告を受けた<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2011040100940 八百長関与23人に厳罰=理事3人も引責辞任-相撲協会] 時事ドットコム 2011年4月1日</ref>。4月5日に尾上
引退後は東京都内で介護職に従事している。
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