「諾曷鉢」の版間の差分

編集の要約なし
(新しいページ: 「'''諾曷鉢'''(諾曷缽、だくかつはつ、生年不詳 - 688年)は、吐谷渾首長。烏地也抜勒豆可汗。 == 生涯 ==…」)
 
編集の要約なし
後に吐谷渾と吐蕃はお互いに攻撃しあい、おのおの唐に使者を派遣して救援を要請したが、高宗はいずれにも応じなかった。[[663年]]、大臣の素和貴が吐蕃に亡命し、吐谷渾の情報を吐蕃に提供した。吐蕃は兵を率いて吐谷渾を攻撃した。諾曷鉢は吐蕃の攻撃を防ぐことができず、弘化公主とともに[[涼州]]に逃れた。高宗は右威衛大将軍の[[薛仁貴]]らを吐谷渾救援のために派遣したが、吐蕃に敗れた。ここに吐谷渾は吐蕃に併呑された。
 
諾曷鉢はかれを支持する吐谷渾の数千家を率いて唐に内属した。高宗は左武衞大将軍の[[蘇定方]]を安置大使として派遣した。[[666年]]、諾曷鉢は青海国王に封じられた。高宗は吐谷渾の部衆を涼州の南山に移させようとしたが、群臣の賛同をえられなかった。[[670年]]、高宗は薛仁貴を邏娑道行軍大総管とし、阿史那道真と郭待封を副総管として、総勢5万の兵で吐蕃を攻撃し、諾曷鉢を旧地にもどさせようとした。しかし唐軍は[[大非川の戦い]]で敗れ、吐谷渾復興の望みは絶たれた。[[672年]]、諾曷鉢は浩亹水の南に移住した。吐谷渾の部衆を[[霊州]]の地鳴沙県に移住させ、[[安楽州]]設置さた。諾曷鉢は唐の安楽州刺史となった。
 
[[688年]]、諾曷鉢は死去した。子の[[慕容忠 (吐谷渾)|慕容忠]]が後を嗣いだ。