「日本カタン糸」の版間の差分

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1895年2月、[[大阪府|大阪]]の[[八尾市|八尾]]に資本金8万円で設立された。大阪、京都、東京に販売所が設置され、1897年には第2工場も完成した。[[日清戦争]]後の不況により、1898年7月に破綻し売却された<ref>[[桑原哲也]] [[#kuwa|[文献]]]</ref>。
 
売却の後は大阪カタン糸[[合資会社]]と名称変更し、ついで[[村井吉兵衛]]が同社を買収し[[村井カタン糸]]と名称変更をした。1907年にはイギリスの[[コーツ・グループ|J. & P. コーツ]]が大株主となり、再び名称変更して[[帝国製糸]](当時住所:愛知県安城市安城町<ref>安城市図書情報館『[https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000255526 帝国製糸という会社が安城のどこにあったか知りたい]』。国立国会図書館。2019年6月8日。</ref>)となり、「日の出印」の糸を生産した。
 
=== 日本カタン糸(湖東紡績の前身) ===
1929年、田附と共に日本カタン糸の加工部門を買収した帝国製糸は、別の新会社として'''日本カタン糸株式会社'''を創立した。資本金は100万円、出資比率は帝国製糸が60%、田附が40%であった。しかし最終的にこの日本カタン糸は帝国製糸に「鰐印」「星鰐印」のカタン糸の生産を委託し、元の日本カタン糸の能登川工場の生産設備も八尾工場に移された。
 
その後の[[第二次世界大戦後]]の影響で敵性資産として凍結・譲渡されたが、戦争終了後の1951年には、[[GHQ]]と[[吉田茂]]内閣下の政令により再設立された(当時住所: [[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]中之島2丁目19番地)<ref>官報 [[#kanpo|[文献]]]</ref>。
 
この法律により日本カタン糸の1万6千株の株主の割合は、[[帝国製糸]](当時住所: 大阪府八尾市安中218)が9600株(60%)、旭光製糸が6400株(40%)と規定され、同時に、[[独占禁止法]]が適用されることが規定され、両者は法律に従い株式を処分することを求められた。
 
ただし[[真珠湾攻撃]]の日付け当時の日本カタン糸の取締役及び監査役が復帰し、[[旭光製糸]](当時住所: 大阪府北河内郡真町古川橋367)からは日本カタン糸の資産が返還された<ref group="注釈">大株主がイギリスのコーツであった帝国製糸は[[第二次世界大戦]]が始まると敵性資産として凍結され、その事業は[[富士紡績]]に引継がれていたが、日本カタン糸の事業は[[旭光製糸]]に引き継がれていたことになる。</ref>。
 
==脚注==
==参考文献==
*<div id="kanpo">『日本カタン糸株式会社の再設立に関する政令』(昭和26年政令第329号)、1951年10月11日。 『[[官報]]』。{{NDLJP|2963981/2}}</div>
* <div id="kuwa">{{PDFlink|[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/00045063.pdf 『初期多国籍企業の対日投資:J. & P. コーツ、1907~49年』]}}(The Japanese Operation of Early Multinationals: J. & P. Coats, 1907-49)、[[桑原哲也]]、2000年05月。『[[国民経済雑誌]]』、[[神戸大学]]。</div>
* <div id="muto">『日本カタン糸株式会社顛末』、[[武藤善人]]、1961年。『歴史研究』、[[大阪府立大学]]歴史研究会。<br />{{NDLJP|2320470/75}}</div>