「北島秀朝」の版間の差分

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[[慶応]]4年[[1月 (旧暦)|1月]]([[1868年]])、[[戊辰戦争]]に東山道総督府大監察として従軍。以後、江戸鎮台府判事助役、同府判事、[[会計官]]判事、[[東京府]]判事、東京開墾局御用掛兼勤、同府権大参事、同府[[大参事]]などを歴任<ref name="mi" /><ref name="ko">「故長崎県令北島秀朝ヘ祭資料賜方伺」</ref>。
 
{{要出典範囲|date=2018年5月24日 (木) 04:26 (UTC)|下総開墾局知事時代に[[下総台地小金牧]]・[[佐倉牧]]の開墾地に命名した、初富、二和、三咲、豊四季、五香六実、七栄、八街、九美上、十倉、十余一、十余二、十余三等のナンバー地名は有名である。和歌山県に赴任する前に大山田下郷に帰郷した秀朝は、「おもひきや我故郷の夢ならてむかしながらの人を見むとは」という短歌を残している。}}
 
明治5年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]([[1872年]]3月4日)、[[和歌山県庁|和歌山県]]権令に就任し、[[1873年]]1月15日、県令に昇格。初期県政の基礎作りに尽力。同年10月13日、依願免本官となる<ref name="ko" /><ref>『新編日本の歴代知事』732頁。</ref>。[[1874年]]4月29日、第一次[[佐賀県庁|佐賀県]]令に発令されたが、[[1876年]]4月18日、佐賀県が廃止され廃官となる<ref name="ko" />。同年、5月22日、[[長崎県庁|長崎県]]令に就任<ref>『新編日本の歴代知事』1012頁。</ref>。{{要出典範囲|date=2018年5月24日 (木) 04:26 (UTC)| [[西南戦争]]勃発時で「河村大輔その他の電報によれば鹿児島既に背きたる形跡現れたり、速やかに大軍は出し、一つは熊本鎮台民助け心一つは当港を守り、一つは鹿児島の衝くを急務安思うなり」大久保内務卿宛に打電した北島は長崎県の民心安定に努めた。}} 西南戦争終結後に[[長崎市]]内で[[コレラ]]が流行し、制止されたが患者を見舞って本人も感染し在職中に死去した<ref>『幕末維新大人名事典』上巻、444頁。</ref>。