「マルクス・アントニウス・プリムス」の版間の差分

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[[ガリア]]のトロサ(現[[トゥールーズ]])に生まれる。アントニウスは、カエサル死後のローマの覇権をオクタウィウス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)と争った末に敗れて自殺した[[マルクス・アントニウス]]とその3番目の妻[[フルウィア (マルクス・アントニウスの妻)|フルウィア]]の次男ユッルス・アントニウスの長男ルキウス・アントニウス(紀元前20年 - 紀元後34年)の息子もしくは孫の可能性がある。ルキウスの妻(アントニウスの母もしくは祖母)はユニッラという女性で、ティベリウス帝の治世末期の31年にコンスル(執政官)に就任して政治の実権を握ったが、ティベリウス帝の策略によって処刑された[[プラエフェクトゥス・プラエトリオ|親衛隊長官]][[ルキウス・アエリウス・セイヤヌス]]とその妻アピカタの娘とされる。妹にアントニア・ポストゥマ(34年生まれ)がいるという。これらが事実ならアントニウスとアントニア・ポストゥマはマルクス・アントニウスの曾孫もしくは玄孫となり、マルクス・アントニウス自死から少なくとも約100年後の西暦1世紀後半までアントニウス家男系の血統は存続していることになる。マルクス・アントニウスの女系子孫にはカリグラ帝、クラウディウス帝、ネロ帝という3人のローマ皇帝がおり、ユリウス=クラウディウス朝の皇族たちと遠縁にもあることにもなる(アントニウスがマルクス・アントニウスの子孫である可能性を肯定するならば、カリグラ帝、クラウディウス帝、ネロ帝の3人とは直接ではないが血縁関係にある)。
 
=== ローマ内戦以前 ===
ネロの治世に[[ローマ]]へ移住、[[元老院 (ローマ)|元老院]]議員となるが、遺書の改竄のかどで元老院議員から除名、ローマから放逐させられる。その後[[ガルバ]]の元へ身を寄せ、第7軍団ゲミナの指揮官となる。
 
=== ローマ内戦 ===
[[ローマ内戦 (68年-70年)|68年からの内戦]]でアントニウスは[[ウェスパシアヌス]]の最大の支持者となる。[[イタリア]]に進軍し、[[69年]]の[[10月]]に[[ベドリアクムの戦い]]で[[アウルス・ウィテッリウス]]の軍を打ち破り、同日[[クレモナ]]を焼き討ちする。その後、[[アペニン山脈]]を横切りローマへ軍を進め、抵抗を受けたものの、侵入に成功する。この攻撃でウィテッリウスは殺され、実質上アントニウスはローマの支配者となった。元老院は[[コンスル]]の官職を与えようとするが、ローマ市内は混乱した。数日後に[[ガイウス・リキニウス・ムキアヌス]]がローマに進軍し、市内の混乱を鎮めた。アントニウスはムキアヌスに服従を強いられるだけでなく、不名誉な扱いを受けてローマを去る事となる。
 
=== 内戦以後 ===
その後の消息ははっきりしないが、時代が下って[[マルティアリス]]が自らの作品で彼の名を言及している事から、[[ドミティアヌス]]の時代までは生存していたものと思われる。
 
== 評価 ==
後年の歴史家[[タキトゥス]]は、アントニウスを行動においては勇敢、演説は雄弁、他者を憎悪にかき立てるのには巧みで、内乱、反乱の時代には隆盛で、強欲で浪費家、平和な時代には悪しき市民であり、戦争の時には軽んずる事のできぬ朋友であったと書いている。
 
== 参考文献 ==