「東ゴート王国」の版間の差分
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[[537年]]、フランク王国との交渉で[[プロヴァンス]]一帯を譲渡する代わりに和平を結ぶと、11月末には全軍をラヴェンナに集結させ、ローマに進軍した。537年2月21日に始まるローマ攻城は1年以上にも及び、双方とも壮絶な消耗戦となった。結果的にローマを落とせなかったウィティギスは休戦を申し入れたが、ベリサリウスは密かに騎兵部隊を迂回させ、ラヴェンナ直轄領に攻撃をしかけた。このためゴート軍はローマの包囲を解き、ラヴェンナに撤退した。
[[538年]]6月21日、ベリサリウス率いる皇帝軍はローマを出立し、アウクシムム(現: [[オージモ]])の要塞を包囲、同じ頃[[ジェノヴァ]]に揚陸した東ローマ軍はミラノを占領した。ゴート軍はフランク王国からの援軍を得てミラノを奪還したが、フランク軍がミラノを略奪したため市民感情は険悪なものとなった。さらにテウデベルト率いるフランク軍が北イタリアに進軍し、ゴート軍も皇帝軍も見境なく攻撃したばかりか、ポー川に女性を人身御供として沈めたため、以後、ゴート軍はフランク王国との交渉を断った。両軍の戦闘はアドリア海沿岸に拡大したが、遂に[[539年]]、ベリサリウス率いる皇帝軍はラヴェンナを包囲、海上を封鎖した。ウィティギスはベリサリウスとの交渉の末、[[540年]]5月、城門を開放し、降伏した。マタスンタはユスティニアヌス1世の従兄弟[[ユスティヌス・ゲルマヌス]]([[500年]]頃 - [[550年]])と再婚した。<ref group="注">一人息子ゲルマヌス(550年 - [[605年]]/[[607年]])を儲け、アマル王家の血筋を後世に伝えた
和平交渉を利用してラヴェンナに入城したベリサリウスは、ウィティギスを捕えた後、東ローマに帰還した。しかし、ゴート軍は[[西ゴート王国]]の王[[テウディス]]の甥[[イルディバルド]]を新王とし、なお抵抗を続けた。イルディバルドはウィティギスの甥ウライアスとの確執から暗殺されるが、彼の甥である[[エラリーコ]]の短期間の王位の後、同じくイルディバルドの甥でエラリーコの従兄弟でもあるトレヴィゾ方面軍を指揮していた[[トーティラ]]が王位に就き、東ゴート軍は勢力を回復することになった。東ローマ軍はラヴェンナを出立し北上したが、劣勢のはずのトーティラの軍勢に敗北して後退、[[542年]]にはファウェンティア(現[[ファエンツァ]])の戦いでも大敗北を喫し、戦線はずるずると南下した。東ローマ軍の小部隊はイタリア各地の防備を固めていたが、トーティラはこれを無視して南下、[[543年]]にはナポリを奪還した。ゴート軍は各地の東ローマ軍と衝突し、重要拠点を陥落。[[546年]][[12月]]に東ゴート軍は、[[イサウリア]]人の裏切りによってローマを陥落させることに成功し、この時に[[ローマ略奪 (546年)|ローマ略奪]]を行った。一時的に優位に立ったベリサリウスは、再びイタリアに赴任したが、地元の支持を得られず、その後の戦況は膠着状態に陥った。[[552年]]4月、本国に召還されたベリサリウスに代わり、総司令官[[ナルセス]]が東ローマ軍を率いて北方からイタリアに侵入した。ナルセス軍は工兵隊を駆使してラヴェンナを落とし、補給を行うとローマに向けて進軍を開始した。[[552年]]、ローマを出立したゴート軍とナルセス率いる東ローマ帝国軍は、ブスタ・ガロールム高原で対峙した([[ブスタ・ガロールムの戦い]]({{Lang-el|Μάχη των Βουσταγαλλώρων}}、{{Lang-en|Battle of Busta Gallorum}})、タギナエの戦い({{Lang-it|Battaglia di Tagina}}、{{Lang-en|Battle of Taginae}}))。この戦いで、ナルセスは前線を全て弓兵でかため、突撃するゴート軍を殲滅、トーティラを討ち取った。
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