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{{Otheruseslist|大阪市中央区北浜にある住友ビルディング(三井住友銀行大阪本店)|大阪市中央区北浜及び今橋に立ち並ぶビル群|住友村|東京都新宿区西新宿にあるビル|新宿住友ビルディング}}
 
{{建築物
|名称 = 住友ビルディング<br/>(三井住友銀行大阪本店ビル)
|旧名称 = 住友銀行本店ビル{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=263}}
|旧名称 =
|画像 = [[画像:SMBC Osaka head office.jpg|300px]]
|用途 = 銀行、講堂{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=263}}
|旧用途 = 銀行、事務所
|設計者 = [[住友合資会社]]工作部([[日高胖]]・[[長谷部鋭吉]]・[[竹腰健造]]){{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=130}}
|構造設計者 =
|施工 = [[大林組]]{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=130}}
|建築主 = 住友合資会社
|事業主体 =
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|建築面積 = 約6,668
|延床面積 = 約35,983
|階数 = 地上5下1階、地下1上6{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=130}}
|高さ = 約24.2メートル
|着工 =
|竣工 = [[1926年]]4月(第1期)、[[1930年]]7月(第2期){{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=130}}
|開館開所 =
|改築 = [[1964年]]{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=263}}、[[2015年]]<ref name="yomiuri20130525">「北浜 住友ビル保存へ 三井住友銀大阪本店モダン建築の価値重視」『読売新聞』大阪夕刊 2013年5月25日</ref>
|改築 =
|所在地郵便番号 = 541-0041
|所在地 = [[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]][[北浜]]四丁目6番5号
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}}
 
'''住友ビルディング'''(すみともビルディング)は、[[大阪市]][[北浜]]の通称「[[住友村]]」にある[[住友財閥]]の拠点として建てられた建築物。現在正式名称[[三井住友銀行]]の大阪本店として利用されているビル
 
== 概要 ==
[[住友家]]の事業は、[[江戸時代]]の前、[[慶長]]年間の[[京都]]に端を発し、[[1623年]]([[元和 (日本)|元和]]9年)に大阪に移り、長堀(鰻谷)で「南蛮吹き」銅構造を家業として栄えてきた{{Sfn|建築と社会|2010|p=39}}。幕末の政変、新政府の出現によって、大阪は一時苦境に立たされ、住友家も他の[[豪商]]と同じように苦しい局面があったが、[[別子銅山]]の近代化を図りながら体制を建て直し、大阪の名門企業として成長を続けた{{Sfn|建築と社会|2010|p=39}}。ただ住友家は家法に「浮利は追わず」の経営理念があり、[[銀行業]]については大きく立ち遅れていた{{Sfn|建築と社会|2010|p=39}}。
[[住友財閥]]の総本店として建築され、財閥持株会社[[住友合資会社]]と傘下の[[住友銀行]]等の系列主要企業の事務所が入居した。[[財閥解体後]]は[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)第一軍司令部、住友銀行本店を経て現在は三井住友銀行大阪本店となっている。
 
[[1882年]]([[明治]]25年)のちに総領事となる[[伊庭貞剛]]は、銀行業を興すことを定めるため[[尾道]]で重役会議を開いて議決、[[1885年]](明治28年)住友銀行を設立する{{Sfn|建築と社会|2010|p=39}}。
住友家十五代当主の[[住友友純|住友吉左衞門友純]]が住友本社内に独自の設計事務所を組織し(後の[[日建設計]]となる組織)、[[野口孫市]](本建物着工前に死去)・[[日高胖]]・[[長谷部鋭吉]]・[[竹腰健造]]をはじめとする建築家を集め<ref>[http://www.sumitomo.gr.jp/magazine/feature03/ 住友の都市美学「住友営繕」とその背景](住友グループ広報委員会)</ref>、5年以上の歳月を費やして完成した。建築途中に[[関東大震災]]が発生し、当初7階建てであった計画は、5階建てに縮小された。
[[1920年]]([[大正]]9年)、[[住友総本店]]では[[東区 (大阪市)|東区]][[北浜]]、現在の[[中央区 (大阪市)|中央区]]北浜の本店所有の空き地に、本店ビルを新築する計画を具体化した{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=129}}。当時、北浜の敷地には南側に[[1908年]](明治41年)11月につくられた建坪640坪2階建ての洋館があり、2階を住友本店、1階を銀行本店が使用していた。しかし、[[第1次世界大戦]]を経て銀行の業容が拡大すると、この建物では手狭になったため、[[1918年]](大正7年)12月に本部と営業部を分け{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=129}}、営業部を別の建物に移した。ちょうどその頃、大阪市内に[[官公庁]]や[[百貨店]]など近代的ビルが建ちはじめたこともあり、住友本店では連系会社の一部をも収容できるあたらしいビルの建築を決断した{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=130}}。
 
住友家ビル建設あたって十五代当主の[[住友友純|住友吉左衞門友純]]は、住友本社内独自の設計事務所部門組織し(後つくり(住友総本店営繕課、[[住友合資会社]]工作部を経て現在の[[日建設計]]となる組織)、[[野口孫市]](本建物着工前に死去)・[[日高胖]]・[[長谷部鋭吉]]・[[竹腰健造]]が設計はじめとする建築家を集め担い<ref>[http://www.sumitomo.gr.jp/magazine/feature03/ 住友の都市美学「住友営繕」とその背景](住友グループ広報委員会)</ref>、5年以上の歳月を費やして完成した。建築途中に主体工事は[[関東震災林組]]が発生し、当初7階建てであ請け負うことになった計画は、5階建てに縮小された{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=130}}
黄土色の[[竜山石]]で窓は小さく、重厚感のあるファサードで、[[土佐堀通]]、[[魚の棚筋]]、旧[[西横堀川]]側の玄関部分にイオニア式オーダーと、英文での社名看板、南の今橋側のファサードはアーチ窓とメダリオンといった意匠となっている。内装にはコリント式オーダーが立ち並び、ステンドグラスの天井がみられる。
 
工事は二期にわけ、まず南側に本店建物をのこし北半分に上層部を貸事務所とする7階建てのビルを建設して、そののち木造の本店を取り壊して南半分に同規模の建物を建築する計画を立て、第一期工事は予定どうり[[1922年]](大正11年)12月に起工した{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=130}}。ところが直後に[[関東大震災]]がおこった。友純は震災後の焼け跡をまわってその惨状をまのあたりにし、建築計画の見直しを指示した。その結果、最終的に7階は廃して6階部分の面積は半減し、防災、避難体制を考慮して外部への賃貸をとりやめ{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=130}}、第一期工事は[[1926年]](大正15年)4月に竣工、第二期工事は[[1930年]](昭和5年)7月に竣工し、住友ビルディングは完成した{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=130}}。
1999年には[[DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築|日本の近代建築20選(DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築)]]に選ばれている。
 
ビルは1、2階を住友銀行、[[住友信託]]が使用し、3、4階に住友合資会社、4階と5階の一部に連系各社が入り、6階には食堂が設けられた{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=130}}。堅実もむねとする住友の家訓にふさわしく、あくまで建築は耐火耐震構造を第一義とした{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=131}}。
 
=== 終戦後 ===
終戦直後、[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)は、住友ビルディングに第六軍第一軍団の司令部を置くことを決定し、住友本社に対して速やかに引き渡すよう通知してきた{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=222}}。当初、GHQは住友ビル全館を[[接収]]すると通告してきたが、GHQと交渉した住友土地工務専務だった竹腰が銀行や信託の使用している1、2階まで接収されると、一般大衆と深くかかわっている金融業務に重大な支障をおよぼし、大阪経済を大混乱に陥れかねないとして断固拒否したため、5階と食堂のある6階だけの接収で決着したという{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=222}}。
 
昭和30年代に入ると、住友ビルディングも入居各社の発展ににつれて過密状態になり{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=262}}、各社協議の結果、ビル東側に隣接する[[住友商事]]および住友家所有の土地約9,000㎡の敷地に地下4階地上13階の新ビルを建設することが決定し、[[1959年]](昭和34年)9月に着工、[[1962年]](昭和37年)7月に竣工した。この新ビルは「[[新住友ビルディング (大阪府)|新住友ビルディング]]」と呼ばれることになった{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=263}}。同ビルの完成を受け、住友ビルディングは10月から住友銀行の単独所有となり、それを機に設計を日建設計工務(現:日建設計)、施工を大林組、電気工事を[[住友電気工業]]の担当で、改造工事に入り、屋上の中庭のあったところに400人の収容の[[講堂]]を増築したほか本店営業部の改装を行い、[[1964年]](昭和39年)末までに付属設備の更新工事も完成させた{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=263}}。
 
なお、ビルは[[1982年]](昭和57年)7月から住友銀行本店ビルと呼ぶようになり{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=263}}、[[2001年]](平成13年)4月の[[さくら銀行]]との合併を経て、三井住友銀行大阪本店ビルと称するようになった。
 
=== 2度目の大規模改修 ===
[[三井住友銀行]]は、2000年代後半から[[耐震性]]の向上やスペースの有効利用を図るため、大阪本店ビルの約50年ぶりとなる大規模改修の検討を始め、建て替える案や、東京・[[銀座]]の[[歌舞伎座]]のように後方に高層ビルを建てる案なども議論されたが、歴史的価値のある建物をそのまま残すべきだという意見が多く<ref name="yomiuri20130525" />、また[[阪神・淡路大震災]]でも損傷せず、現在の建築基準に照らしても十分の強度があることがわかり、建て替えはしないとの結論に至った。これに則り、[[2015年]](平成27年)5月末までの予定で改修工事に取り掛かり、内側の柱の間に板を渡し耐震性をさらに高めたほか、川の氾濫に備えて、高さ1.2mの[[防潮板]]をつくり<ref name="yomiuri20130525" />、1階には建設当初からある天井の[[ステンドグラス]]を生かして待合室も新設された<ref>{{cite news |title=光の天井でお出迎え 三井住友銀行、大阪本店の改修終える|author= |agency=|publisher=日本経済新聞 |date=2015-5-20|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASHC19H3T_Z10C15A5AC8000|accessdate=2021-1-12}}</ref>。
 
== 意匠 ==
近世復興様式の重厚な建物は{{Sfn|住友銀行百年史|1998|p=130}}、黄土色の[[竜山石]]で窓は小さく、重厚感のある[[ファサード]]で、[[土佐堀通]]、[[魚の棚筋]]、旧[[西横堀川]]側の玄関部分に[[イオニア式]][[オーダー (建築)|オーダー]]と、英文での社名看板、南の今橋側のファサードはアーチ窓とメダリオンといった[[意匠]]となっている。内装には[[コリント式]]オーダーが立ち並び、ステンドグラスの天井がみられる。
 
[[1999年]](平成11年)には[[DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築|日本の近代建築20選(DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築)]]に選ばれている。
 
== 周辺 ==
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist}}
 
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=住友銀行行史編纂委員会編|title=住友銀行百年史|publisher=住友銀行|year=1998|month=8|isbn=|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=|title=建築と社会|publisher=日本建築協会|year=2010|month=9|isbn=|ref=harv}}
 
== 外部リンク ==
* [https://www.sumitomo.gr.jp/history/related/smbc-osaka/ 三井住友銀行大阪本店ビル] - 住友グループ広報委員会
 
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