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'''水野 忠興'''(みずの ただおき、[[元文]]元年([[1736年]]) - [[宝暦]]13年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]([[1763年]][[8月7日]]))は、[[紀伊国|紀伊]][[紀伊新宮藩|新宮藩]]([[紀州藩]][[御附家老|附家老]])<ref>[[幕藩体制]]下では[[大名]]格の所領を有しながら[[陪臣]]として扱われ、[[明治維新]]までは大名とは見なされなかった。</ref>第6代藩主。
 
第5代藩主・[[水野忠昭]]の長男。正室は[[高槻藩]]主・[[永井直期]]の娘。養子に[[水野忠実 (紀伊新宮藩主)|忠実]]([[水野守鑑]]の次男)。[[官位]]は[[従五位|従五位下]]・[[筑後国|筑後守]]。[[幼名]]は大吉。
 
[[寛延]]2年([[1749年]])10月25日に父が死去したため、同年11月19日に跡を継いだ。同年12月28日、第9代将軍・[[徳川家重]]に初[[御目見]]する。宝暦2年([[1752年]])12月16日、従五位下・筑後守に叙任。宝暦13年(1763年)6月28日に死去し、跡を養嗣子の忠実が継いだ。[[享年]]27。法号は本立院殿義道日成大居士。墓所は[[神奈川県]][[鎌倉市]]の高松寺。