「ハマノパレード」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
18行目:
'''ハマノパレード'''は[[1973年]][[宝塚記念]]を制した[[日本]]の[[競走馬]]である。
 
[[1969年]][[3月18日]]に誕生したハマノパレードは、1972年のクラシック戦線を沸かせた[[ランドプリンス]]・[[ロングエース]]・[[タイテエム]]の関西3強と同世代である。しかし、デビュー予定が骨膜炎で1ヶ月ずれ込んだ事が響いたか、初勝利は年越し直後の未勝利戦であった。2月迄に3勝したハマノパレードは関東地区の流感騒動でずれ込んだ[[クラシック]]に乗ろうとしたが、休み無く使い込んだ無理が祟り細化。止む無く、ハマノパレードの将来を考え陣営はクラシックを諦め休養に入った。
 
この決断は吉と出た。休み明け直後700万下・オープンを連勝した勢いに乗り、[[天皇賞]]馬・[[ヤマニンウエーブ]]参戦の[[阪神大賞典]]を制覇。翌年に入ってからも好調は続き、不得手の重馬場になった[[日経新春杯]]こそ6着に沈んだものの、次走の[[京都記念]]では[[菊花賞]]馬・[[ニホンピロムーテー]]を倒し重賞2勝目。夢に見たタイトル[[天皇賞]]獲得は目の前かと思われたが、運が悪い事にレース当日の天候は雨。ハマノパレードは8着に沈み、無冠の貴公子・タイテエム戴冠を見せ付けられたのである。
 
だが、リベンジのチャンスは意外に早く訪れた。宝塚記念でハマノパレードはスタートから先頭を奪うと、2番手につけたタイテエムに一瞬馬体を併せられるが、二の足を使って振り切りレコード勝ち。遂に裏街道を抜け出したのであった。
 
しかし、栄光の日々は1ヶ月も続かなかった。中京競馬場の次走・[[高松宮記念_(競馬)|高松宮杯]]でも天皇賞馬・[[ベルワイド]]を向こうに回し、宝塚記念の再現をするかの様に快調に逃げていた。悪夢は最後の直線で起きた。2番手の[[タケデンバード]]に決定的差を築き始めた刹那、ハマノパレードはよもやの転倒。前脚を骨折しており、馬運車に収容されたその場で[[予後不良]]診断されが下程の致命傷であった。
 
だが、ハマノパレードはその場での死を許されずそのまま食肉業者に売り飛ばされ、翌朝になって屠殺されたのである馬肉が中京競馬場にほど近い名古屋地区の食肉市場に出た件はから、スポーツ新聞沙汰になりで記事として扱われそれを見た動物愛護運動の者たちから大きな批判を浴びる事態となった。その後、年が下るにつれ、重度の故障を発症した競走馬について屠殺が原則的に行われなくなり、予後不良になの診断が下た名馬はその場で後の必要な諸手続きが完了次第、即刻薬殺される様になシステムが整備されていった。皮肉にもハマノパレードの死は現行の[[安楽死]]システムが作られる一つの大きな契機となったであといえる。
 
[[Category:サラブレッド|はまのはれと]]