「ベーブ・ルース」の版間の差分

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セント・メアリーに入れられた当初、それまで学校へ行っていなかったために読み書きができなかったが、実家が酒場で物心つく頃から店のメニューの文字を毎日見ていたため、食べ物の名前だけは読むことができた。それを知ったマシアスから「きみも毎日欠かさず努力を続けていれば、何でもできるようになる」と励まされたルースは真面目に勉強に取り組むようになり、翌年には習字で賞をもらうまでになった。
 
もともと仕立屋を目指していたため、[[ミシン]]の腕前は確かで、プロ入り後も[[ユニフォーム]]の修繕は自分でやっており、時にはチームメイト達のユニフォームの修繕を買って出ることもあった。ルースは事あるごとに、「俺に1時間くれれば、シャツを4枚縫い上げてみせる」と得意げに語っていた。セント・メアリー校でボルチモア・オリオールズからのスカウトを受けた時には、「自分は仕立屋になる予定だから、もう野球をしている暇はない」と言って最初はスカウトを断ったという逸話がある。セント・メアリー校はラジオも新聞もない(当時は当然テレビもない。アメリカでテレビ放送が始まったのは第二次世界大戦中の[[1941年]])外部から隔離された環境であり、まして7歳から同校に入っていた当時のルースは野球にプロチームがあることさえ知らなかったのである。そこでダン監督が慌てて、「給料は年間600ドル(現在だと約6万6000ドル)出そう」と言うと、ルースは「好きな野球をして、そんなにお金がもらえるのか」と大変驚き、今度はすぐに契約に応じたという。
 
セント・メアリーを卒業して都会に出たルースは、生まれて初めてエレベーターに乗ってこれを面白がり、係の者にお金を渡して自分で操作をさせてもらった。しかし、当時のエレベーターのドアは現在と違って[[格子戸]]であり、ルースはドアの隙間から首を外に出して階との間に挟まれそうになり、周りの人々から「首を出すな!挟まれるぞ!」と言われなければ危うく命を落とすところだったという。こうした世間知らずで子供っぽい行動も、ルースが「ベーブ(赤ちゃん)」とあだ名された由縁であった。