「広幡豊忠」の版間の差分

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== 経歴 ==
実父は[[久我通名]]。[[1669年]](寛文9年)に[[久我家]]から[[広幡家]]に養子入りした。先祖養父の[[久我晴通]]は[[近衛家]]からの養子であり、豊忠は近衛家の血筋を引いていた。養父の広幡忠幸]]は[[八条宮智仁親王]]を父に持つ旧皇族である。そのため広幡家はり、新家ながら[[清華家]]の格式を与えられている家柄であった。

[[1670年]](寛文10年)に叙爵し、以降清華家の当主として速いスピードで昇進し、[[近衛府|左近衛少将]][[近衛府|左近衛中将]]を経て、[[1683年]](天和3年)には霊元天皇[[中宮]][[鷹司房子]]の[[中宮職|中宮権亮]]に任命されるとともに[[従三位]]となり、[[公卿]]に列する。さらにその後[[中納言|権中納言]]・[[踏歌節会]]外弁をて、[[1692年]](元禄5年)に[[大納言|権大納言]]にぜられ、[[1704年]](宝永元年)に辞するまでの12年にわたって務めあげた。その後の[[1710年]](宝永7年)にももう一度再び権大納言に任ぜられ、[[1720年]](享保5年)までの10年にわたって務めた。この間の[[1719年]](享保4年)には[[近衛大将|右近衛大将]]、[[馬寮|右馬寮御監]]にも任じられる。[[1723年]](享保8年)2月4日[[内大臣]]にしたがぜられ、同8日に辞職した。[[1726年]](享保11年)に[[従一位]]に叙された。
 
1737年(元文2年)、死去。跡を継いだ子の忠誠、忠章、忠成はいずれも早世し、末子の[[広幡長忠|長忠]]が第6代当主となった。