「利用者:Samudiran/sandbox」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: 差し戻し済み
編集の要約なし
タグ: 差し戻し済み
2行目:
<!-- この行より下を編集してください -->
 
もう少し広げて瑩山禅師は、日常行なわれる行持、さまざまな法要、たとえば檀信徒のために行なうような祈祷なども「清規」の中に含めて考えていらっしゃるのですけれども、いろいろな儀式というものも含めて、『清規』を制定されたのだということでございます。少し考えると分かりますけれども、私どもは、自律性があれば、内容が決められていなくても大丈夫だと、自分自身で律して行ける人はそれで良いのですけれども、なかなかできるわけではないのです。何かやはり、強制ではないのですけれども、枠があって、これを外れてはダメですよと、たとえば親が子供に教育する場合でも同じだと思いますけれども、子供の自主性に任せるという方が今は有力ですけれども、実際上はしかし、任せたら好き勝手なことをします。それが一般だと思います。それを、生活の規範、普遍的規範とでも申しましょうか、誰もがやはりお互い社会人として、社会に生きる者としてお互いに守り合って、支え合っていかなくてはならない、そういう決まりがなければならないのですが、そういうことがあって初めて一つの道ができあがるのです。それはたとえば、芸術、芸能の世界でも同じだと思います。お茶にしろ、お花にしろ、さまざまな演劇にしろ、既定の枠があるでしょう。基礎が身に付かないで素晴らしいものが生まれるかというと、そうではないですよね。その基礎ができて、その枠が身に付いたうえで、それを破っていく。それで創造性が生まれるのですよね。最初を抜きにしてポンと何か出てくるかというと、そう簡単に行くものではない。やはりまずは、ちゃんとした作法、それからしきたり、決まり、それを学び取る、「型」ですね、それをしっかりと身に付けて、そのうえでその「型」を破る、新しい「型」を作るということだろうと思うのです。まさにその作法、仕方、こういう枠組みで毎日の行持を行ないなさい、ということをこの『瑩山清規』の中に、丁寧に書かれております。日常、毎日のこと、それから月ごとのこと、それから年間のこと、そういった枠組みで、詳しく呈示しておられます。そのようなことがこの中にありまして、やはり改めてそうした枠組みの大切さ。これにこだわり過ぎてしまうと、これはまた中の命が消えてしまうこともありますので注意しなければいけませんけれども、まずは型を身に付けるということが大事だろうと思います。現在の曹洞宗で行なわれております仏事、さまざまな行事がありますが、それにも、瑩山禅師が定められたこの『清規』が大もとになっているということは、申し上げて良いかと思います。
皆さん、こんにちは。今、ご紹介頂きました、木村でございます。この鶴見大学では、五年ほど、学長をさせてもらいまして、その後も現在も、大学の仏教文化研究所というのがございますが、その顧問ということで、仕事を少し手伝わせていただいています。そんな大学との縁、その前にも短大で少し教授として教えたりというようなこともございまして、色々な繋がりが、宗門の関係はもちろんですけれども、大学の関係があるということで、私の守備範囲と申しましょうか、わたしの関わりのある、大きな機関の一つ、ということになります。
 最後に少し挙げましたのは、前にこの研究所のシンポジウムでお話をしたことに関連して挙げてみたのですけれども、「生死去来真実人」。今、生と死の問題、死生学と学問の世界では言っています。生と死をひっくり返して、タナトロジー(Thanatology)の訳語として死生学という言葉が使われておりますけれども、これを主題にシンポジウムを行なった時にお話をしたものなのですけれども、有名な言葉として「生死去来真実人体」という、圜悟禅師(?)がたしか言われている言葉だと思いますけれども、この「体」を付けた言葉が使われているのですけれども、これを「体」を外しているのです。これが瑩山禅師の特徴であると。もちろんこれは句作り、文章というのは必ず型をふまえて、整えて初めてきれいな読みやすい文章、頭に入りやすい文章になるので、これに則ってのことでもあるのですが、同時にそれだけではなくて、やはり「体」を外したという中に、何かリアルな、生き生きとした、生の人間と言いましょうか、私たち一人ひとりというニュアンスが入っているように思うのです。ここには生きる死ぬ、この世に生まれ去っていく、そのような私という存在そのものが真実人のあり方である、つまりどこにも欠けるものは無い、不完全なものは無い、まさにまるごとの真実がそこに露わになっている、リアルな私に顕わになっているのだということを、お説きになっておられるのです。これも大変大事なことだと思います。これは、譬えとしては水波、水と波とが別ではないというようなことを譬えにしながら説かれている、これは『坐禅用心記』に出てくる言葉ですけれども、生まれる、死ぬ、そういうことにこだわるというか、生きていることが良くて死んでしまうとダメ、意味がないというように分けて考える考え方を、そのままに受け取ってはいけない、要するにまるごと、生まれるも死ぬも全部ひっくるめてそのまま、禅には「生也全機現、死也全機現」という言葉もありますけれども、死というのはそれ自体ある意味では美しいものなのであると、そのことを私どもは改めて考えなければならないのではないかと、決して、生が良くて死が悪い、生は素晴らしいもの、美しいもので、死は醜いもの、嫌なもの、そう考えてはいけない、どちらも完全なる真実の顕われである、しかもそれが具体的に「人」という形を取って顕われ出してくる、そこに瑩山禅師はポイントを置いた人間観をお持ちだったのではないかと、私は思っております。
 今回はですね、只今ご挨拶が御座いました田村航也老師からお話を頂いて、現在ここに立っている訳でございますが、田村老師は東京大学での後輩になります。同じ印度哲学仏教学という分野で勉強した先輩後輩という関係になりますが、大変、特に總持寺様、御本山の進む方向と申しましょうか、いうことに関して今、色々な形で力を尽くして頂いている方でおられます。そういうことで、この後のお話にも繋がってまいりますけれども、少しそのお役に立てば、ということでお引き受けをして、これから五十分ほど講演をさせていただこうということでございます。
 ちょうど時間となりました、といのは昔の講談にもありましたか、その時間のようでございますので、ここまでにさせていただきたいと思います。何か皆さまの、ものを考える、正しい法を考える糧と、また瑩山禅師研究の新しい方向を見出すきっかけになればということを願いまして、私の取り敢えずの講演を終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。
 まず、最初に少し書きましたけれども、瑩山禅師という方はご承知の通り、總持寺の御開山でいらっしゃいまして、宗門では両本山と申します、永平寺様と總持寺様、他の宗派では大本山は一か所でございますが、曹洞宗では両本山、同格という位置づけになりますが、二つの本山を持っているということになります。その一方の御開山、お寺を開かれた方が瑩山禅師、瑩山紹瑾禅師ということでございます。今日、ご参考までに、瑩山禅師略伝という、これはつい最近にご本山の方から出してもらいました、一番最後に書いてございましたが、出典を書いておりますけれども、瑩山禅師のお言葉を集めた小冊子がございます。その付録として付けられたもの、最近の研究を反映して割と簡潔にきちんと書いておられますので、まとめておられますので、それをご参考までに皆様にも今お配りをさせていただいた、この一枚目の全体の流れを記した要綱にあたるもの、うしろに付いておりますので、また必要に応じて触れてまいりたいと思いますが、この先ほど申し上げたように、両祖様、両本山それぞれの御開山、永平寺の道元禅師様と總持寺の瑩山紹瑾禅師と、同格で位置づけられているわけでございますけれども、実際上、これはいろいろ理由はあるのですけれども、道元禅師は宗派宗門を超えて大変有名でございます。『正法眼蔵』が多くの思想家たち、研究家たちによって注目されて、ずいぶんいろんな視点からの研究が進んでいるということがありますが、それからご自身で説かれたことが確実ですし、あまり中心的な著作に関しては疑義、問題点があまりないという点がございます。そういったことから、道元禅師の研究は『正法眼蔵』を中心として非常に進んでおります。曹洞宗宗門外の方で熱心に研究され学習される方も結構たくさんいらっしゃるのですね。それに対してこの瑩山禅師については、これもあとで申しますが、資料がまだきちんと吟味されていないという、そういった問題もありまして、両祖と言いながら、社会的な認知度というものは大変大きな違いがありますし、それから宗門の中でも必ずしも本当の意味で両祖としての扱いをしてきたのかというと、ちょっとどうかなというところもあるんですね。しかし、この後私、それから古川老師からのお話をお聞きになれば、大変、中身の問題としても、両祖として崇めるべき、私たちが敬愛すべき方々だということがお分かりいただけるのではないか、というように思います。つまり宗門内の位置づけを正しく修正するということでしょうか、そういう見方を、やはり本当の意味での見方に、正しい見方にやはりしていく必要があるだろうと思っております。
 
 それから現代といいましょうか、言うまでもなくこの禅宗を含めて、私たちの信じる仏教は、大乗仏教の流れを汲んできているわけですけれども、その大乗の根本精神と言いましょうか、なぜ大乗仏教が起こったのか、それがどのように、何を目的として広まったのか、そういうところから考えたときに、非常に重要な示唆をたくさん瑩山禅師はお持ちでいらっしゃるのですね。もう一度、瑩山禅師の禅、あるいは仏教というものを、しっかりと見直すということが、大乗仏教の根本を見直すということにもつながるというように、私は思います。一例だけですが、さきほど今日の関係される先生方、田村老師を含めて、ご一緒にお食事をしながらお話をしたのですけれども、本当の意味での親切さといいましょうか、人に対しての愛情とか親切さとは、広く仏教の言葉を使えば利他とか慈悲というこのになるのですけれども、そういう心を本当に深くお持ちで、しかもそれを行動に、いろんな側面で行動に移していらっしゃるということがございます。言葉と行動というか、これが意外とばらばらになってしまうことがあるんですね。本来仏教者は、やはり言葉と行動、言うこととすることが、一致していないといけないのですけれども、昔から知行一致ということを申しますけれども、そういうことを本当に実践されて、具現されているのではないか。そういう意味でも、大乗精神というものを学ぶ上で、大変大きな意味を、大きなものを示しておられるように思います。
 それからもう一つは、現代の宗教としての可能性を考えた時のことなのですけれども、いまご承知のとおり宗教全体が相対化され、どんどん良い意味での影響力を失ってきております。良いものを残している宗教はいろいろあるのですけれども、悪い側面だけがある意味助長されてきてしまっている、あるいは、忘れられてしまっている、そういう方向が、良いものが忘れられている、そういう面も見出されるのではないかと思います。国際的にはたとえば仏教は、しっかり現代社会を正しく導くうえで大事だということをおっしゃる識者、いわゆる有識者ですね、そういう方々もいらっしゃるのですけれども、それがやはり具体化なかなかしない。その力を発揮する間が本当にない、弱いということなのではないかと思います。そこで、やはり良い、現代宗教として生きる中身と言いますか、それはちゃんとこの瑩山禅師の仏教にはあると思いますので、それを学ぶ中で、それをどう現代という場に応じた実践に結び付けていくか、ということを真剣に模索する、そして少しずつでも広げていくという努力をしなければいけないのではないか、そういうように思っているところでございます。
 ということで、これから少し、私が特に大事だと思うところに関して、お話を進めさせていただきます。
 まず、先ほど最初に少し申し上げましたように、瑩山禅師に関する関係文献というものは、ご自身の著述とされるものも含めてたくさんあるのです。それを種類に分けますと、三つに分けましたか、伝記類、これは『洞谷記』という一番上に出ております一の最初のところですね、これはご自身の記録ですが、そのあとに、瑩山禅師が亡くなられた後に付けられたものもありまして、広げて理解しなければならない、完全な著述ではありませんが、大半は瑩山禅師ご自身が書き残されたもの、それが中心になっていると、それは間違いないと思います。それ以外のものは、その後の人たちがまとめ上げてきたものでございますが、伝記類の中ではこの『洞谷記』というものを中心にして、瑩山禅師のお仕事の中に、残されたもの、そういったものを跡付けることができるわけでございます。次に、宗義に関するものとして、ここに挙げましたように、実はたくさんのものがございます。『伝光録』から、今日古川老師がお話してくださる『信心銘拈提』をはじめとして、その後にも後醍醐天皇に結び付けられた書物などもありまして、結構たくさんあるのですけれども、実は、今別に仏教文化研究所で『伝光録』の研究会をしているのですけれども、今の基本作業は、いくつかの『伝光録』という名前で、これは言うまでもなく瑩山禅師ご自身が著されたことは間違いないことで、この略伝の中にもございますように、三十代後半に説法された、それが記録されて残っているのがこの『伝光録』なのですが、そのテキストが実は、系統もいくつかありますし、いくつか古いものだけでも較べてみると結構違いがあるのですね。ですから、どこまでが、どれがもともとの『伝光録』、瑩山禅師のお言葉だったのか、ということが必ずしもはっきりしないということがあります。という状況に代表されるように、一番中心になって瑩山禅師の残されたものでは中心になるものなのですけれども、したがって宗門では『正法眼蔵』と並んで大事にされてきたのですけれども、実際上、その元の姿が必ずしもまだ明確にされていない。学問的に言うと書誌学とか文献学と言われる分野でその位置づけ、きちんとした吟味、確定がなされていないということなのです。それを今、きちんと整理して、元のものがどのようなものだったのか、できるだけ浮き彫りにしていこうという作業を実は、しているわけでございます。それ以外のものに関しても、この中では『信心銘拈提』はほぼ瑩山禅師のものと考えて良いだろうと思いますが、この二つが柱になるということなのですね。『伝光録』と『信心銘拈提』、これがもう、テキストそのものもたくさんあるわけではございませんし、吟味することも難しいのですけれども、慎重な扱いをやはりしていくことが求められるだろう。他のものに関しては結構疑義が多いものがございます。特に後醍醐天皇と結び付けられたものについては、どうかなと思うところが結構ありまして、学問の分野では、仏教学あるいは禅学の研究者たちのところでは、あまり信頼性は高くないということでございます。
 それから、坐禅・行持に関しては、やはり『坐禅用心記』、これはしっかりしたものですし、少なくとも全体の筋とか中身に関しては、瑩山禅師のものと考えて良いと思うのですけれども、これもそのままということに関しては、いろいろと意見がございます。それから、もう一つ『瑩山清規』ですね、これは行持に関するものでございますけれども、一番頼りになる、実際の宗門で行なわれておりますさまざまな仏教の行持、法要がございますが、そのルーツになるものなのです。これに関してはほぼそのまま信頼できるのではないか、ということでございますが、後で付け加えられているところも、無きにしもあらずということでございます。
 そのようなことで、資料に関してもなかなか扱いが難しい、道元禅師の『正法眼蔵』のようにご本人がお書きになった真筆の部分があるものがいくつがありますし、あといろいろな面から考えて、少なくとも七十五巻本という形でまとめられた書物、それから十二巻本とまとめられた書物がありますが、後に九十五巻本という、岩波文庫で最初に出したのは九十五巻本だったのですけれども、現在ではその元に帰って、七十五巻本と、それから最後、道元禅師が亡くなられる少し前にまとめられた十二巻の『正法眼蔵』があります。この二つを拠り所にして、『正法眼蔵』の中身を我々が勉強させていただくということになっているわけでございますが、そこに収められたものは、ほぼ大丈夫だろうと。ただ、たとえば皆様によく知られている「生死の巻」というものがございます。曹洞宗の方は現在でも法要などの際によく読まれる『修証義』がありますよね。『修証義』の中にも「生死の巻」は、冒頭の総序から始まって結構使われているのですけれども、これはちょっと、いろいろ学問的に吟味いたしますと、どうも道元禅師の直接お説きになったもの、そのうちの筋のいくつか大事なものは押さえられているとは思うのですけれども、テキストとしてはどうかな、というように私は思っております。だから「生死の巻」は、先ほどの七十五巻や九十五巻には入っていないのですけれども、少し置いておいて考えなければならない。むしろ、曹洞宗のある時期に民衆化を図っていく、教線も広げていくという、そういうことに関連してまとめ上げられたものではないか、と思います。ということで、『正法眼蔵』という名前のものでも、名前がついているから全部そのまま信用していいというわけではないですけれども、比較的間違いないと思うものがたくさんあるわけですが、それに比べて瑩山禅師がお残しなったとされているものの中には、かなり疑わしいものがたくさんありまして、その意味でもまずはテキスト、文献資料のきちんとした検討、吟味から再スタートしなければいけないのではないか、と思われるわけです。ただその中でも、全体を目を通しますとうかがわれる重要な点がいろいろございます。伝記のことに関しましては、ここでは時間もあまりございませんので、あとでまた読んでいただくこととしまして、その次に挙げた実践上、思想上の諸問題の方をまずお話をして、時間があればまた伝記の方に帰ってまたお話をさせていただこうかと思います。
 まず、瑩山禅師のお考えをうかがう上で、特に私が注目したいと思うものをここに挙げているのですけれども、まずは宗教体験が重なってきて、何度も何度も宗教的な体験をされ、そして誓願を立てられる。そしてまた、体験をされ誓願をされる、このような歩みをされているのです。これがとても私は大事だと思っております。最初の時に、伝記では六歳の時に、信心に目覚められた、というものが出てくるのです。出家の意志を固められる、と。六歳ですよ、六つで、それをなさったということがございます。どんなきっかけがあったのかということについては、あまり詳しく分からないのですけれども、やはり何かひとつ、はっとすると言いましょうか、深く心に刻み込まれたものが、このあたりから始まっているのだろう、というように思います。それから、二十二歳でしょうか、はっきりしたものとしては二十二歳の時に、『法華経』をお読みになる。それまでにも、そういう瑩山禅師の歩みで注目されるべきものの一つは、いろいろな禅師様について、禅のいろんな系譜の勉強をされている、流れを受けている。それからもう一つは、たとえば天台の教え、臨済ももちろん、禅では臨済が入っていますし、それから天台の教えもしっかりと学び取られているのです。比叡山で勉強されているのです。そういうことで、非常に広く勉強されているということです。禅のいろいろな系譜と、そして当時の、比叡山は日本仏教の母体とも言われますけれども、比叡山での天台学、天台の勉強もされておりまして、幅広く仏教の勉強をなされておられます。そういったことがベースになるわけですけれども、二十二歳の時に『法華経』をお読みになって、この「父母所生の・・・顧みる」という体験をされていると伝えられております。私どもの肉眼を通して三千世界、簡単に言えば世界のすべて、宇宙のすべてが分かったという話でございますけれども、これが出てくるのです。ある一つの、臨済宗の言葉遣いを使えば一種の見性悟道だと思いますけれども、それがなされているのだと思われます。このような経験をされ、この後に、今日この会を主催された城満寺のご住職が田村老師ですけれども、その城満寺に晋住、住職されたのが二十八歳の時でありますが、三十一歳の時の体験としては、この「平常心是道」、当たり前の心がそのまま道(どう)である、道は仏道の道ですし、同時に道という言葉は真実そのものを表わします。この道、もともとこれは南宗禅という、禅宗の中でも特に広く日本にまで伝わってきた大きな勢力を作り上げていった南宗禅の系統で重要な馬祖道一という方がいらっしゃいますが、その方が始めて説かれたと言われておりますけれども、その言葉でございますが、これを師匠の徹通義介禅師がお説きになった。それを聞かれて、ああそうか!と、ここでもまた頷かれたということです。これは簡単に言えばおそらく分別心、あれかこれか、あれがいいこれが悪い、あいつは憎い、こいつはかわいい、という分別心が消えるところに成立する心のありようを指すものだと思いますけれども、このことを聞いて、ああそうだ!と悟られて、お師匠さまにその見解(けんげ)を、思いを伝えるのですけれども、一回ではお許しにならなかったのです。そこでもう一度、練ると言いましょうか、その境涯を深めていくきっかけを師匠は弟子に与えるわけです。それを受けてもう一つ、突き詰められるというか、そこで更に道(い)えと言われて、「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」という、お茶を出されたら、いただきます、ごちそうさまと、ご飯も、こういうありようを見解として、思いとして仏道の真実、つまりここで言えば「平常心是道」の中身として呈示されたのです。こういう体験をされていらっしゃるわけであります。このようなことが、三十一歳のものとして伝えられております。それからもう一つ、さまざまなその後行動的、活動的に、禅語録を残すようなことも含めていろいろなことをされるのですが、『瑩山清規』を書かれておりますのも六十前後ですね、それから五老峯という先師と自らにつながる法系の重要なお祖師さま五人を含めて祖師堂、その祖師をお祀りするお堂をお作りになりますが、これが六十歳の時ということです。そして亡くなられるのが、現在の説では六十二歳ということになっておりますが、実はその直前なのですが、これがまた私は大変大事だと思うのですけれども、二つの大きな誓願を立てておられるのです。この後の箇所に少し触れておりますけれども、この誓願の中身というのが、一つが「常発心」、つまり発心し続ける。発心というのは、発菩提心、悟りの実現。発心と言いますのは、発菩提心という言葉の逆なのですけれども、常に発心している。(?)発心の連続ですね。これは古くは、たとえば華厳の文献で申しますと、華厳教学・華厳宗の基礎を築いた智儼という方がいらっしゃいますが、その方が残された最後の著作の中に、心、常に新しくある、新たに、新たに、新たに、発心をしていくという、そういう言葉を残しておられますけれども、これと中身は同じなのだと私は思いますが、一日一日、もっと言えば一瞬一瞬が発心の連続でなければならない、これが私は一番言いたいのだと思うのですね。これを亡くなる前、もう六十二歳で亡くなっておられますので、本当にその直前なのですよ。そういう誓願をお立てになっております。それからもう一つの誓願が、女人救済なのですね。つまり女性を大事にするという、その救いを自らの念願とすると。常発心というのは、もちろんこの世でということだけではなくて、はるかに生々世々、仏道を信じるかどうかの基本線はこの生々世々の命の継続を信じられ切れるかどうか、ということかと思うのですけれども、おそらく瑩山禅師もその生々世々をかけて、生まれ変わり死に変わりしながらいつまでもということですけれども、発心し続けるという、と同時に、女性の救済、ですね。前からそのような救いの問題に関しては、たとえばすべての檀那、支えてくれる檀信徒の方々を大事にしなければいけないということもおっしゃっています。これも丸の五のところに挙げておきましたけれども、「檀那を敬うこと仏の如くすべし」という言葉があります。檀那は、ご主人の檀那ではなくて、ダーナですね、布施をされる方、つまり仏のために、あるいは三宝のために、真実なるもののために、供養をする心を、これは財施・法施、両方ありますけれども、自らが持っているものを差し上げる、差し出すというのが、布施なのです。布施は今、お布施というと皆お金だけだと、イコールお金と考える方が多いと思いますけれども、本来の布施は、三つあります。布施というのは、財施、一つは財産ですね、お金を含めて、物、ですね。たとえば、お野菜をあげるとか、衣服、きれいな着物を差し上げるとか、全部それは入ってきますけれども、それから法施、これは真実の教えを伝えることなのです。正しい教えを、ああこれは素晴らしいなと、自分が受けて、ああなるほどその通りだ、と思った、受け止めた真実を他の方にも伝えていってあげるというのが法施なのです。その法施と、もう一つは、無畏施です。これは、究極的には観音様しか完全にはできないと言われているくらいのものなのですが、畏れを取る。つまり、これはおそらくカウンセリングの理想なのですが、人からクライアント、患者さまのお話を聞いて、そうだ、そうかね、と頷いていく。そういうことを通して、もしも相手が完全にその畏れ、恐怖や悲しみや、イライラしたもの、不安、そういったものを全部取り除いてあげられたら、それはまさに無畏施になると思うのですけれどね。この畏れを無くする、この畏れといのは全部そういう意味です。精神的な不安、苦しみ、全部含めて言うのですが、この畏れを無くする施しというものがございますが、このような形の施しをしてくれる、その一番目に見えた最も身近な存在が、この檀那なのです。本当の意味での信者さんです。その信者さんを、仏さまのように大事にしなさいよ、という言葉を残しておられるわけです。なぜかと言うと、という説明を付けておられまして、戒・定・慧のげ、これは戒律、禅定、智慧ですね、仏教者が学び取るべきものを三学と言います。一つは、戒です、正しい生活規範。これを学び取って身につけるとうことです。それから、定は禅定。心を静めることによって、心がどんどんきれいに澄んでくる。このような精神性を培っていくのが、定です。それからもう一つの慧は、智慧ですけれども、これは必ず心が落ち着いて静まる、そこに初めて真実のものが見えてくる、その見えてきたものを智慧と言うわけですが、その三つができる、身につけさせてもらうのは、それは皆檀那の力によってそれが完成されていくのだ、つまり簡単に言えば、お坊さんが修行して理想の存在とまでなっていく、そういう歩みができるのは皆、檀那の力、信者さんたちの力によるのだよ、ということを最後の頃の『置文(おきぶみ)』に書かれているのです。このような精神が元からあったのですが、その中でも特に、仏教は元々お釈迦さまの時代から信者の方々というのは女性が多い伝統があるのですが、そのようなことも含めて、本当の意味で、もちろん時代背景があります、当時の瑩山禅師のご生涯、この最初のところにもございますように、十三世紀の後半から十四世紀の前半にかけてでございますが、南北朝に入っていく、世が非常に乱れていくような方向性があった。鎌倉幕府が力をどんどん失って、次の時代へと変わっていく時代背景があるのですけれども、その中で女人救済の願というものを立てていらっしゃるのです。まず救うべきものは、まず救われなければならない存在は女性なのだ、こういう認識をお持ちになって、その誓願を立てていらっしゃるということでございます。これはお母さまが、『略伝』にも載っておりますけれども、大変熱心な観音さまの信者でいらしたということですし、後で正式のお坊さんになっておられます。そのために観音堂をお建てになっておられるのですけれども、このようなお母さまの影響も強くあると思うのですが、ともあれ、当時の状況の中で、多くの在家の方々、中でも女性の救済を第一に考えていかなければいけない、発心と女人救済というその問題が一対になってくるのです。一番最後に、亡くなる直前に、おそらくこの頃にはもう自らの死期を感じ取っていらしたと思います。その中で、この願を立てられる。そういった、宗教体験とこの誓願が折り重なって、ずうっと続いてくる。その出発点が六歳になるのでしょうけれども、そのような歩みは本当に素晴らしいと言いますか、そういう言い方をするのもちょっと変ですが、私どももそうありたいと思うお姿だと思うのです。
 もう一つ柱として考えられるのは、慈悲に基づく坐禅、でございます。道元禅師の坐禅は、一般的には智慧の坐禅、突き詰めていく坐禅だと言われておりますけれども、たしかに鋭い、磨き上げた見解、見識と言いましょうか、禅的な悟りの表明、悟りの目から見た世界観、人生観、そういうものがふんだんに『正法眼蔵』の中に出てくるわけですけれども、それに対して、瑩山禅師のこの慈悲が強調される坐禅。これは非常に細かく、親切に、坐禅の仕方から中身まで『坐禅用心記』に書かれているのですけれども、その中の一つのポイントになっておりますのが、この言葉です。「常に大慈大悲(だいずだいひ)に住して、坐禅の無量の功徳を一切の衆生に回向せよ」ということをおっしゃっているのです。大慈大悲は、観音さまのお徳を表す言葉として定着しております。つまり単なる慈悲、私どもの慈悲というのは、慈悲の心と軽く使うこともありますけれども、本当に限られた、そして自らの利己的なものがどうしてもそこに絡んでくるような形でしか慈悲は実践できない。たとえば、浄土真宗を開かれた親鸞聖人がおっしゃっておられますけれども、自分にはとてもそういう慈悲を実践すること自体ができない、それが菩薩の行なのですが、そのことが親鸞聖人の宗教を開かせる原動力になるのですね。つまり、徹底した愚かさ、自らがダメな存在だ、そのことの自覚が反転するのです。そして丸ごと、仏の慈悲、直接的には阿弥陀如来ですが、阿弥陀如来の慈悲の世界、慈悲の光に汲み上げられていく、このようなものが親鸞聖人ですけれども、親鸞聖人も言われておられますように、なかなか本当の意味での慈悲を行なうこと、少しの慈悲でもなかなか大変なのですね、本当にやさしさ、慈しみと哀れみと、と一般的には慈悲のことを申しますけれども、大慈大悲は、それが純粋なものであり、大きなもの、それから制限がないもの、限りないものでなくてはいけない。この心に住する。そこにとどまって、そしてそれが具現されるところに坐禅があり、もちろんその他の行動、日常的な行動、行持があるのですけれども、そのすべてが大慈大悲に支えられている、その中核に坐禅がおそらくあるのだと思います。その坐禅から、無量の功徳が生まれてくる。その無量の功徳を、ああ良かったというだけでは、これはダメなのですね。それを、すべて一切の衆生、生きとし生けるものに施しなさい、回向しなさいというのがこの文章なのです。すべてこれはですから、利他に貫かれるのです。大慈大悲に住して、そしてそこで坐禅をさせてもらう、そしてそこから、気が付く気が付かないにかかわらず、限りない功徳が生まれてくる、その生まれたものはすべて、私のためではない、すべての生きとし生けるもののためにあるものだ、という押さえ方をされ、そのことを具体化していかなければならないのです、これが回向です。ですから回向も、単なる頭の中で、あの人のためにこうしてあげればまあ良いかなといって考える話ではないのです、具体的にそれが実践に結び付けられているのだと思いますけれど、まずはその精神をそこに置かなければならないというのが、慈悲の坐禅というものの中身ということになるわけでございます。このことが、言ってみれば、この現代という時代に置き換えてみますと、先ほど最初に申し上げたように、やはり現代宗教としての可能性、禅の可能性を私は非常に明確に示しているのではないか、というように思っております。これが、一つでございます。
 それから次に、『清規』のことについても触れておきましたけれども、この『清規』、要するに禅が独自に、従来は仏教はどの教団もお釈迦さまの時代からだんだんに戒律というものは問題が起こったごとに決められてきて、それが積もり積もって、男性の場合は二百五十戒、女性の場合は五百戒と一般には言われておりますけれども、たくさんの生活規範、生活の決まりができあがります。それを拠り所にして、まず生活の仕方をととのえるというのが伝統だったのですが、禅宗はある時期から、百丈禅師という方が出られた時代なのですが、その頃からそれに代えて、基本的な拠り所として、全部戒律は要らないと言ったわけではないのですけれども、それに実際上代わるものとして作られたのが「清規」というものでありまして、禅の中の、禅宗内の生活の規範、その基礎をこの「清規」が示しているのでございますけれども、この「清規」を
===インド独立後===
[[1947年]]にインドが独立すると、各州の統治者たちは[[インド連邦 (ドミニオン)|インド連邦]]への帰属を選んだ。後にチャングバーカル州、ジャシュプル州、コーリヤー州、サルグジャー州およびウダイプル州は[[マディヤ・プラデーシュ州]]の一部となったが、ガンガープラ州とバネーイ州は[[オリッサ州|オーディシャー州]]の一部となり、カルサーワーン州とサラーイケーラー州は[[ビハール州]]の一部となった<ref>Eastern States Agency. List of ruling chiefs & leading personages Delhi: ''Agent to Governor-General, Eastern States,'' 1936</ref>。