「琵琶湖」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
タグ: 取り消し |
topを改稿。人間史を加筆。 タグ: ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集 |
||
16行目:
|透明度=2.0~16.8<ref group="注">天候によって大きく変動する。また、季節や水域ごとにも異なる。概して南湖で低く、北湖で高い透明度。最高値は2007年3月に観測。</ref><ref name="水環境の現状">[http://www.byq.or.jp/kankyo/k_04.html 琵琶湖・淀川流域の水環境の現状] 琵琶湖・淀川水質保全機構(2019年7月19日閲覧)。</ref>}}
'''琵琶湖'''(びわこ)は、[[滋賀県]]にある
== 地理 ==
25行目:
一方、湖底地形から見ると、北湖盆 (North Basin)、中湖盆 (Central Basin)、南湖盆 (South Basin) に分けられ、北湖盆と中湖盆の境界は[[沖島]]北方付近で、鞍状の湖底地形が存在している<ref name="grj1984a.722">植村善博、太井子宏和「[https://doi.org/10.4157/grj1984a.63.11_722 琵琶湖湖底の活構造と湖盆の変遷]」『地理学評論』Ser. A 1990年 63巻 11号 p.722-740, {{doi|10.4157/grj1984a.63.11_722}}</ref>。
北湖は面積623km{{sup|2}}、平均水深41[[メートル|m]]。南湖は面積58[[平方メートル|km{{sup|2}}]]、平均水深4m<ref name="grj1984a.722"/>。湖底が最も深い水域は北湖の中央やや北寄り、[[竹生島]]の南にあり<ref name=":0">[https://www.gsi.go.jp/kankyochiri/kinki-biwako.html 琵琶湖] [[国土地理院]](2019年7月19日閲覧)。</ref>、これまでに観測された最大水深は104.1mである。琵琶湖の湖底は1000年間に1mというペースで沈降している<ref name="最深部"/>。
琵琶湖を取り巻く各自治体は、大きく'''[[湖南]]'''、'''[[湖東]]'''、'''[[湖北]]'''、'''[[湖西]]'''に分けられる。''※区分については「[[滋賀県#地域]]」を参照。''
湖を囲む[[山地]]からの流れが[[源流]]で、[[琵琶湖疏水]]や[[淀川]]水系を通じて[[京阪神]]に水道水を供給していることから、「[[近畿地方|近畿]]の水瓶」とも呼ばれる<ref name="近江八幡市"/>。
世界で20ほどしかない古代湖の一つであり<ref>{{Cite web |url=http://www.pref.shiga.lg.jp/d/biwako-kankyo/lberi/01shiru/01-04biwako/01-04biwako.html |title=琵琶湖の概要 |date=2017/07/26 |accessdate=2019/02/12 |publisher=滋賀県}}</ref>、世界で13番目に古い湖と言われている<ref name="marine-rutgers">{{cite web |title = Ancient lakes of the world |format=website |url = https://marine.rutgers.edu/~cfree/ancient-lakes-of-the-world/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200209063201/https://marine.rutgers.edu/~cfree/ancient-lakes-of-the-world/ |archivedate = January 20, 2020 | publisher = Christopher M. Free | accessdate = 20 January 2020 }}</ref>。[[魚類]]57種、[[貝類]]49種の生息が確認されており、琵琶湖[[固有種]]も多い(魚類は[[ビワコオオナマズ]]、[[ニゴロブナ]]、[[ホンモロコ]]、[[ビワヒガイ]]など16種、貝類は29種)<ref name="なんでも一番"/>など[[生物多様性]]に富む。[[明治]]から[[昭和]]の初期までは、琵琶湖の周囲に大小40数個の内湖が広がり、多くの生物を育んでいた。しかし琵琶湖の洪水防御のため、1943年から始まった河水統制事業により<ref>{{Cite web |url=https://www.city.higashiomi.shiga.jp/0000001122.html |title=びわ湖の干拓 |website=東近江市ホームページ |publisher=東近江市 |accessdate=2018-12-17}}</ref>、事業が終了する1952年までに平均水位が数十[[センチメートル|cm]]低下したことや、これに前後して内湖の大半が[[干拓]]されたこともあって琵琶湖の自然は大きく変化し、固有の風致や[[生態系]]が大きく損なわれた。現在、滋賀県は一部の内湖を復元することを計画<ref>{{Cite web |url=http://www.lberi.jp/root/jp/31kankou/3112news/omia/77/bkjhOmia77.htm |title=滋賀県琵琶湖環境科学研究センター |publisher=滋賀県琵琶湖環境科学研究センター|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111111222230/http://www.lberi.jp/root/jp/31kankou/3112news/omia/77/bkjhOmia77.htm |archivedate=2011-11-11 |accessdate=2018-12-17}}</ref>しており、生態系の回復や水質浄化が各方面から期待されている<ref>{{Cite web |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305225910/http://www.ex.biwa.ne.jp/~hayazaki/sub03.html |archivedate=2016-03-05 |title=早崎内湖ビオトープ聞取調査結果『広報びわ』 |website= |publisher=早崎ビオトープネットワーキング |accessdate=2018-12-17 |url=http://www.ex.biwa.ne.jp/~hayazaki/sub03.html}}</ref>。「[[入江干拓]]」「[[大中湖]]」も参照。
52行目:
[[安土桃山時代]]には、[[豊臣秀吉]]は大津の船持に大津百艘船を整備し、[[観音寺]]の船奉行の支配下に置かれ、特権を与えられて保護された。[[近世]]になると、大津は松原や[[米原市|米原]]など他の港と対立し、[[江戸時代]]には松原・米原・[[長浜市|長浜]]が「[[彦根藩|彦根]]三湊」として[[井伊氏]]の保護を受けた。[[文化 (元号)|文化]]2年(1805年)8月から10月にかけて[[伊能忠敬]]が沿岸を測量している<ref>{{Cite web |format=PDF |url=http://www.town.aisho.shiga.jp/rekibun/documents/kaisetsu-ichiran.pdf |title=古地図の魅力 |publisher=愛荘町立歴史文化博物館 |page=1|date=2015 |accessdate=2017-11-16}}</ref>。
江戸時代には湖岸に約2000の村があり、[[彦根藩]]や[[膳所藩]]のほか[[旗本]][[知行地]]など領主は約50に分かれていた。唯一の流出河川である瀬田川に土砂が溜まると、雨で湖岸や流入河川の水位が上がり、[[水害]]に悩まされた。[[元禄]]年間に[[河村瑞賢]]が[[浚渫|川ざらえ]]をしたが、[[江戸幕府]]の財政難で1700年代には[[治水]]は滞り、深溝村(現・[[高島市]])の[[庄屋]]・藤本家が幕府[[老中]]・[[松平定信]]に[[直訴|駕籠訴]]までするほど深刻な問題であった<ref name="日経20200212" />。住民は[[浚渫]]を願い出たが、幕府が下流地域の治水も理由に許可せず、しびれを切らした住民が独自に土砂をさらう工事に着手。結局、地元の村が3回と幕府が2回工事をしたとの記録が残っている<ref name=":1">{{Cite web|title=もっと関西 琵琶湖 「水止めたろか」実際どうなる…(とことんサーチ)|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO21537210W7A920C1AA2P00|website=日本経済新聞|date=2017-09-26|accessdate=2021-01-14|language=ja}}</ref>。[[1896年]]([[明治]]29
琵琶湖が[[淀川]]となって[[大阪湾]]に流れる位置から、[[日本海]]の[[若狭湾]]で陸揚げされた物資が琵琶湖上の水運を介して[[京都]]や[[大坂]]に輸送された。こうした輸送は明治以降もしばらく隆盛であったが、陸上交通の発達によって次第に斜陽となった。一方、[[高度経済成長期]]には琵琶湖から[[運河]]を掘削して日本海と[[太平洋]]・[[瀬戸内海]]を結ぶ運河構想が持ち上がった。当初は、琵琶湖から日本海と瀬戸内海を結ぶ「[[日本横断運河|阪敦運河]]」構想を[[福井県]]知事の[[北栄造]]が調整し始めた。特に[[三重県]][[四日市市]]長の[[平田佐矩]]が熱心だったこともあり、福井県・滋賀県・[[岐阜県]]・[[愛知県]]・三重県および[[名古屋市]]・[[敦賀市]]・四日市市の間で、総工費2500億円-3500億円をかけ若狭湾-琵琶湖-[[伊勢湾]]を結ぶ[[中部横断運河]]の[[建設期成同盟]]が結成され、[[自由民主党 (日本)|自民党]]副総裁の[[大野伴睦]]が会長に就任した。しかし、大野や平田が相次いで死去したことや、北および敦賀市長の畑守が相次いで落選するなど推進の中心人物を失い、1970年には中部圏開発整備本部が調査の打ち切りを発表した<ref>{{Cite web |url=http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T6/T6-4a5-02-01-02-04.htm |title=『福井県史』通史編6 近現代二 |website= |publisher=福井県文書館 |accessdate=2018-12-17}}</ref>。
|