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'''アンナ・ゼーガース'''(Anna Seghers, [[1900年]][[11月19日]] - [[1983年]][[6月1日]])は、[[ドイツ]]の[[小説家]]である。本名はネティ・ラドヴァーニ (Netty Radványi)、旧姓ライリング (Reiling)。[[メキシコ]]亡命の後、[[東ドイツ]]で活動した。代表作に『第七の十字架』『死者はいつまでも若い』など
 
== 経歴 ==
=== 前半生 ===
[[マインツ]]の裕福な[[古美術商]]イージドーア・ライリング (Isidor Reiling) と妻のヘートヴィヒ (Hedwig) の長女一人っ子として出生。両親ともに宗教は[[ユダヤ教]][[正統派 (ユダヤ教)|正統派]]。文学好きの母の影響で、幼少よりドイツやロシアの古典文学を読んで育ち、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]に心酔した
 
1907年より個人塾へ通い始め、1910年に高等女学校へ進学。1920年、[[アビトゥーア]]に合格し[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]に進学して[[美術史]][[社会学]]・[[中国学]]を専攻し、[[マルクス主義]]、[[社会主義]]にも関心を深めた。1924年「[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]の作品中のユダヤ人とユダヤ教」''Jude und Judentum im Werk Rembrandts'' という論文にて博士号取得。
 
1925年、学生時代に知り合った亡命[[ハンガリー]]人の社会学者[[ラースロー・ラドヴァーニ]] ([[:de:László Radványi|László Radványi]]) と結婚して[[ベルリン]]へ移ったり、作家活動を開始。1926年、長男ピエール (Pierre) を出産。1927年、小説『グルーベチュ』(日本語訳は同学社から刊行)を「ゼーガース」という苗字だけのペンネームにて発表。ペンネームから筆者の性別が特定できなかったため、作品を読んだ批評家からは男性作家の手によるものと推測された。「ゼーガース」というペンネームはオランダの画家[[ヘラクレス・セーヘルス]] (Hercules Segers) に由来する。
 
1928年、長女ルート (Ruth) を出産。同年、『[[バルバラ (聖人)|聖バルバラ]]の漁民一揆』(''Aufstand der Fischer von St. Barbara'', 日本語訳は集英社から刊行)を「アンナ・ゼーガース」のペンネームで発表。この作品により[[クライスト賞]] (Kleist-Preis) 受賞。1928年、[[ドイツ共産党]]に入党。1930年、初めて[[ソビエト連邦]]を訪れた。
 
===亡命時代===
[[File:Anna Seghers Das siebte Kreuz 1942.jpg|thumb|メキシコで出版された『第七の十字架』(1942)表紙]]
1933年、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]がドイツで政権を取ると、[[ゲシュタポ]]に逮捕されたが、結婚してハンガリー国籍であったため、ほどなく釈放された。しかし、ゼーガースの作品はドイツ国内で禁止された。この年、ドイツを去り[[スイス]]へ、後に家族と合流し[[フランス]]へ移った。パリ滞在中1937-39年に1933年代表作マインツに近い強制収用所で実際に起きた脱走事件から題材をなるった『第七の十字架』(''[[:de:Das siebte Kreuz|Das siebte Kreuz]]''<ref>[[:de:Fritz J. Raddatz]] (Hrsg.): ''Die ZEIT-Bibliothek der 100 Bücher.'' Frankfurt a.M.: Suhrkamp 1980. (suhrkamp taschenbuch 645)(ISBN 3-518-37145-2 <700>)に採り入れられているが、編集者はその理由として ≫ein gültiges Dokument der antifaschistischen deutschen Literatur≪ であるからと述べている。なお、同書での ''Das siebte Kreuz'' についての解釈は396-398頁。</ref> , 発表は1942年、日本語訳は筑摩書房から刊行、のち岩波文庫に収録)や『[[トランジット]]』(''Trandit'', 発表は1944年、日本語訳は中央公論社から刊行)を執筆。また、[[ルカーチヨハネスジェルジ|ジェルジRルカベッヒャ]]と[[リアリズム]]論の推薦めぐっ受けの往復書簡を発表した(日本語訳は盛田書店から刊行)。1940年にナチクワ勢力がフランス『国際文学』誌及んでく一部掲載すさらなる亡命先を求めて[[パリ独ソ不可侵条約]]近郊を去が結ばれたことによ[[マルセイユ]]へ移、1941年にの発表[[メキシコ]]へ亡命しできなくなった。
 
1940年に[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|ドイツ軍のパリ侵攻]]が始まると、夫ラスロはフランス南部に観察拘留され、アンナもドイツ軍を避けてフランス南部の[[パミエ]]に移った。ここで夫の解放や出国の手続きに奔走し、この時の体験を『トランジット』(''[[:de:Transit (Anna Seghers)|Transit]]'', 発表は1944年、日本語訳は中央公論社から刊行)に描いた。また、[[ルカーチ・ジェルジ|ジェルジ・ルカーチ]]と[[リアリズム]]論をめぐっての往復書簡を発表した(日本語訳は盛田書店から刊行)。1940年にナチスの勢力がフランスに及んでくると、さらなる亡命先を求めて[[パリ]]近郊を去り[[マルセイユ]]へ移り、[[アメリカ]]在住の友人の援助もあって1941年に出国したが、アメリカではコミュニストとして[[FBI]]に監視されていたために上陸を許されず、メキシコに亡命する。『第七の十字架』の原稿はフランス在時に4部作成したが、そのうち3部は失われて、アメリカに渡った出版関係者に預けた原稿だけが生き残り、1942年に[[エーリヒ・マリア・レマルク|レマルク]]の推薦文が付されて一部短縮した英語版がアメリカで出版された。これは「[[:en:Book of the Month]]|ブック・オブ・ザ・マンス]]」ブッククラブの推薦図書になってベストセラーとなる。続いてメキシコの亡命出版社からドイツ語版が出版され、その後多くの言語への翻訳が行われた。さらにアメリカの『[[デイリー・ミラー]]』紙などで漫画版が連載され、作画は[[レンベルク]]生まれでドイツから移住していた画家ウィリアム・シャープが担当した。1944年には[[:en:The Seventh Cross (film)|映画化]]され、さらにヨーロッパ戦線に向かう兵士がドイツの国内事情を知るために軍用ポケット版も作成された。メキシコ亡命中には『死者はいつまでも若い』などを執筆した。
 
===帰国、東ドイツへ===
[[File:Bundesarchiv Bild 183-78890-0011, Berlin, Auszeichnungen, Seghers, Schröder, Nagel.jpg|thumb|1960年愛国功序章金賞受賞時、[[:de:Otto Nagel|オットー・ナーゲル]]らとともに]]
[[ファイル:Berlin Anna Seghers Grab 7112 59.jpg|thumb|ゼーガースの墓]]
戦後1947年、[[アメリカ合衆国]]、[[スウェーデン]]を経てドイツへ帰国、この間に父は1940年にマインツで死去、母は[[ポーランド]]のピアスキ強制収用所で1942年に殺害されていた。先にベルリンに戻っていた[[ベルトルト・ブレヒト]]夫妻の元に身を寄せた後、[[西ベルリン]]に居を構えた。同年、[[ゲオルク・ビューヒナー賞]]を受賞。1950年、[[東ベルリン]]へ移った。1951年、[[ドイツ民主共和国]]国民賞 (Nationalpreis der DDR) を受賞。同年、[[中華人民共和国|中国]]を訪問。1952年、[[ドイツ民主共和国作家連盟]] (Schriftstellerverbandes der DDR) の会長に就任。1955年、現在のアンナ・ゼーガース記念館のあるアパートへ移った。ドイツではアメリカ軍によって映画『第七の十字架』は占領軍への抵抗につながることを恐れて上映禁止にされており、東ドイツでは1954年、西ドイツでは1972年まで続いた。小説版『第七の十字架』は東ドイツでは1950年頃には広く読まれるようになったが、西ドイツでは「68年世代」が現れて以降に徐々に読まれるようになった。<ref name=hosaka>『第七の十字架』岩波文庫 2018年([[保坂一夫]]「解説」)</ref>
 
[[ハンガリー動乱]]時において[[ルカーチ・ジェルジュ]]の救出を試みて失敗した[[:de:Aufbau Verlag|アウフバウ社]]の[[:de:Walter Janka|ヴァルター・ヤンカ]]が1957年に反革命罪で告発された時には、[[ドイツ社会主義統一党]]の第一書記[[ヴァルター・ウルブリヒト]]に直接抗議を行ったが拒絶され、夫の身にも危険があったためにそれ以上の擁護はできなかった。没後に発見された「正義の判事」という短編は、権力の手先として働くことに抵抗する若い判事を描いたもので、このヤンカ裁判におけるアンナの苦悩を表していると考えられており、2000年にドイツで映画化された。<ref name=hosaka/>
1961年、[[ブラジル]]を訪問。この時の滞在を元に『渡航-ある恋の物語』(''Überfahrt. Eine Liebesgeschichte'', 発表は1971年)を執筆。1978年に夫のラースローが死去した後、自らも1983年6月1日に死去。芸術アカデミーにて国民葬が行われ、ラースローやブレヒトも眠るベルリン中央部の市立ドローテン墓地に葬られた。
 
1961年、[[ブラジル]]を訪問。この時の滞在を元に『渡航-ある恋の物語』(''Überfahrt. Eine Liebesgeschichte'', 発表は1971年)を執筆。1978年に夫のラースローが死去した後自らもその後は[[タンザニア]]での支援活動を行う。1983年6月1日に死去。芸術アカデミーにて国民葬が行われ、ラースローやブレヒトも眠るベルリン中央部の市立ドローテン墓地に葬られた。
 
[[ファイル:Berlin Anna Seghers Grab 7112 59.jpg|thumb|ゼーガースの墓]]
1977年にマインツ大学の名誉作家称号授与、1981年にマインツの名誉市民になった<ref>岩波文庫『第七の十字架』解説、下巻p405-406</ref>。
ベルリンの住居は記念館として公開されており、マインツの生家も公的に保存されている。[[ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ]]交響曲第九番(1997)では『第七の十字架』が作品化されている。
 
==作品==