「アルフォンソ2世 (アストゥリアス王)」の版間の差分

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[[フルエーラ1世]]と王妃ムニアの子として[[オビエド]]で生まれた。父の死後、アルフォンソは[[シロ (アストゥリアス王)|シロ]]王の妃で、叔母にあたるアドシンダの庇護を受けていたが、言い伝えではガリシアの[[サモス (スペイン)|サモス]]修道院で育ったとされる。シロ王が死ぬと、アドシンダ王妃と宮廷の高級貴族らの支持を受けて王に選ばれたが、強い反対派の後押しを受けた叔父の[[マウレガート]]に王座を奪われ、[[アラバ県|アラバ]]の母方の親戚を頼って逃れた。
 
ブルビアの戦いで[[ベルムード1世]]を下が敗戦即座に退位し、アルフォンソはアストゥリアスに帰還し、791年9月に即位した。
 
[[カール大帝]]と相互に交流があったことが知られる。そこで何が行われたは不明だが、796年、797年、798年の3度、[[ガラエキア]]の代表団が[[フランク王国|フランク]]宮廷に送られた証拠があるからである。一説では、アストゥリアス東部へのイスラム教徒の攻撃から王国の統一性を維持しようとしたと考えられている。さらには、カール大帝が積極的に戦っている[[養子的キリスト論]]者との関係があったと信じられている。