「エティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズール」の版間の差分

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=== 実質宰相として ===
[[七年戦争]]の始まった後しばらくして、ショワズールと同じくポンパドゥール夫人の子飼いである[[フランソワ=ジョアシャン・ド・ピエール・ド・ベルニ|ベルニ]]は、その任に堪えられないと見なされるようになっていた。というのもベルニは、状況の展開から、この戦争がフランスにとって益になるものでもなければ行うべきものでもないと考えるに至っていたからである。ベルニは何度も早期和平を訴えたが、これは国王にとってもポンパドゥール夫人にとってもウィーンにとっても不都合なことだった。やがてベルニはショワズールを呼び戻して自分の後任に据えるよう求め、ヴェルサイユもウィーンもこれを良案と考えた。こうしてショワズールは外務大臣に就任する。ベルニの誤算は、彼の構想ではショワズールが表でベルニが裏、といわば二人三脚でやっていこうと考えていたのに対し、ショワズールはもちろんウィーンもヴェルサイユも、和平派のベルニが影響力を持つことはウィーンもヴェルサイユも望んでいなかったことであった。ベルニは[[枢機卿]]職を退職金代わりに追い払われ、ショワズールがポンパドゥール夫人の信頼のもとに腕を振るうことになった。ショワズールが公爵位を得たのはこのときである。
 
ショワズールはヴェルサイユ条約締結の前にポンパドゥール夫人からその内容を知らされたときは否定的な感想を持ったようにそのメモワールには書いてあるが、戦争指導では一貫して主戦派だった。[[プロイセン王国]]の不利を承知していたショワズールは、プロイセンは遅かれ早かれ音を上げる、むしろプロイセンがその勢力を大幅に失うとオーストリアとロシアを利させすぎるから危険だと考えていた。そしてプロイセンが脱落すれば海軍に資金を集中できるからイギリスとの戦争も挽回できるとも考えていた。もちろん実際にはプロイセン軍がその優秀さとしぶとさを全ヨーロッパに知らしめて屈せず、ドイツ戦線ではフランス軍はハノーファーからライン川に追い返された。アメリカ大陸での敗北は回復不能で、予算を集中できない海軍は敗北が続いた。