「維新の三傑」の版間の差分

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この三傑の遺族のうち、木戸の養子・[[木戸正二郎|正二郎]]と大久保の長男・[[大久保利和|利和]]は、大名・公家以外の出身者(すなわち幕末まで無位無官であった家)としてはただ二家のみ、[[華族令]]発布当初より侯爵(他に武家で列せられたのは15万石以上の旧大名家のみ)に列せられた。[[1879年]]には維新の功を賞し、先に没した木戸・大久保の遺族とともに、[[維新の十傑]]の一人である[[広沢真臣]]の広沢家は[[華族]]に列せられた。当時の華族は旧[[藩主]]と[[公家]]に限定されており、[[華族令]]制定以前にこの3例を除いて[[士族]]から華族に昇ることはなかった。[[1884年]]、嫡子の[[広沢金次郎|金次郎]]に[[伯爵]]が授けられた。早く斃れた広沢の名は今日では三傑に比べて影が薄いものの、当時は死してなお木戸に準ずる畏敬を受けていたことが伺われる。
 
西郷の遺児だった嫡男の[[西郷寅太郎|寅太郎]]は少し遅れて[[1902年]]に維新の功で伯爵と扱いが低いが、これは隆盛が逆賊として最後を遂げた経緯を考えれば<ref>死後名誉回復された際も他の2人の贈従一位より劣る贈正三位であった</ref>むしろ破格であり、この三人が功臣としては死後も別格扱いであった証左となっている。
 
ちなみに、発布当事(1884年)に残る功臣の筆頭格として政府の権勢を握っていた[[伊藤博文]]、[[山縣有朋]]、[[黒田清隆]]らはいずれも[[伯爵]]であり(伊藤と山縣は最終的には[[公爵]])、まだ20代前半で何の実績もない木戸正二郎と大久保利和に対し、あえて自分達より格上の[[侯爵]]で遇したことになる。
 
西郷は[[西南戦争]]により逆賊扱いとされたが、明治22年(1889年)2月11日に、褫奪されていた正三位を追贈されて名誉回復が行われた。[[1902年]]、西郷の遺児[[西郷寅太郎|寅太郎]]が隆盛の維新の功で侯爵に叙され、華族に列した。
 
[[徳富蘇峰]]が生涯をかけた大著『[[近世日本国民史]]』最終巻に、三者を論じた『明治三傑』([[講談社学術文庫]]、[[1981年]]、元版は第100巻『近世日本国民史 明治時代』[[時事通信社]])がある。
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