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従軍が戊辰戦争のことであることや、開拓使としての活動や退任などについて加筆。
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{{No footnotes|date=2017年9月}}
 
{{政治家
|人名 = 島 義勇
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|退任日 = 明治5年[[6月24日 (旧暦)|6月24日]](1872年[[7月29日]])
}}
'''島 義勇'''(しま よしたけ、[[文政]]5年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/島+義勇-1676476 |title = 新訂 政治家人名事典 明治~昭和の解説 |publisher = [[コトバンク]] |accessdate = 2018-02-11 }}</ref>([[1822年]][[10月26日]]) - [[明治]]7年([[1874年]])[[4月13日]])は、[[江戸時代]]末期([[幕末]])から明治にかけての[[佐賀藩]]士、[[明治政府]]官吏。[[札幌市]]の建設に着手し、「[[北海道]]開拓の父」と呼ばれる。[[佐賀の七賢人]]の一人。[[江藤新平]]と共に[[佐賀の乱]]を起こし刑死した
 
== 系譜 ==
'''島 義勇'''(しま よしたけ、[[文政]]5年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/島+義勇-1676476 |title = 新訂 政治家人名事典 明治~昭和の解説 |publisher = [[コトバンク]] |accessdate = 2018-02-11 }}</ref>([[1822年]][[10月26日]]) - [[明治]]7年([[1874年]])[[4月13日]])は、[[江戸時代]]末期([[幕末]])から明治にかけての[[佐賀藩]]士、[[明治政府]]官吏。[[札幌市]]の建設に着手し、「[[北海道]]開拓の父」と呼ばれる。[[佐賀の七賢人]]の一人。
文政5年(1822年)、[[肥前国]][[佐賀城]][[城下町|下]]の精小路(現・[[佐賀県]][[佐賀市]]与賀町の[[小字|字]]・精)に、佐賀藩士・島市郎右衛門の長男として生まれる。通称は団右衛門、[[字]]は国華、楽斉、桜陰の[[号 (称号)|号]]。母つね(旧姓木原)の実の姉妹にあたる喜勢は、[[枝吉神陽]]と[[副島種臣]]の母に当たる(つまり島義勇は枝吉神陽および副島種臣と従兄弟の関係に当たる)。
[[江藤新平]]と共に[[佐賀の乱]]を起こし刑死した。
 
== 生涯 ==
=== 幕末期 ===
文政5年(1822年)、[[肥前国]][[佐賀城]][[城下町|下]]の精小路(現・[[佐賀県]][[佐賀市]]与賀町の[[小字|字]]・精)に、佐賀藩士・島市郎右衛門の長男として生まれる。通称は団右衛門、[[字]]は国華、楽斉、桜陰の[[号 (称号)|号]]。母つね(旧姓木原)の実の姉妹にあたる喜勢は、[[枝吉神陽]]と[[副島種臣]]の母に当たる(つまり島義勇は枝吉神陽および副島種臣と従兄弟の関係に当たる)。
 
文政13年([[1830年]])より[[藩校]]・[[弘道館 (佐賀藩)|弘道館]]で学ぶ。[[天保]]15年([[1844年]])に[[家督]]を継ぐと諸国を遊学し、[[佐藤一斎]]、[[藤田東湖]]、[[林桜園]]らに学ぶ。[[弘化]]4年([[1847年]])帰国して藩主・[[鍋島直正]]の外[[小姓]]、弘道館目付となる。[[嘉永]]3年([[1850年]])[[義祭同盟]]発会式に出席。[[安政]]3年~4年([[1856年]]~[[1857年]])に藩主・直正の命で、[[箱館奉行]][[堀利煕]]の近習となり、[[蝦夷地]](現在の北海道)と[[樺太]]を探検調査し、『入北記』という記録を残した。安政5年([[1858年]])に帰藩し、御蔵方、同組頭から[[香焼町|香焼島]]守備隊長となる。[[慶応]]3年([[1867年]])に藩命で[[軍艦]]奉行、朝令で[[戊辰戦争]]における[[陸軍]]先鋒[[参謀]]の佐賀藩兵付となる。慶応4年([[1868年]])3月、佐賀藩の[[海軍]]軍監、ついで東上し、[[下野国|下野]]鎮圧軍大総督軍監となり、新政府の[[東北地方]]征討に従う。
 
=== 北海道開拓 ===
[[明治2年]]([[1869年]])に蝦夷地が[[北海道]]と改称され、[[6月6日 (旧暦)|6月6日]]に新政府において藩主・直正が蝦夷開拓督務となった。島は蝦夷地に通じているということで蝦夷開拓御用掛に任命され、同年[[7月22日 (旧暦)|7月22日]]、開拓判官に就任した。直正から[[開拓使]]の長を引き継いだ[[東久世通禧]]以下の本府は、北海道で貿易港として早くから開けれていた[[道南]]の[[函館市|箱館]]にあったが、明治政府は[[道央|北海道の中央部]]の札幌に新たな本府となる都市の建設を決定。島は同年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]、銭函(現・北海道[[小樽市]]銭函)に開拓使仮役所を開設し、南下して札幌に至り建設に着手する。当時の札幌は、[[アイヌ]]の[[コタン]]([[集落]])と[[和人]]入植者の家が点在するほかは原野であったが、島は「五州第一の都」(世界一の都)を造るという壮大な構想を描き<ref name="道新20201018">【時を訪ねて 1869】道都の建設(札幌)原野に「世界一の都」構想『[[北海道新聞]]』日曜朝刊別刷り2020年10月18日1-2面</ref>、[[京都市]]や故郷の佐賀などを念頭に置いて、[[碁盤]]の目のような整然とした市街を目指して工事を進めた。島は数百人の職人・人足を率い、現地に暮らすアイヌの協力も得た。だが工事開始が冬場に当たり、米の輸送船が沈む危難にも見舞われ、掘っ立て小屋で[[犬]]を抱いて寝て寒さをしのぎ、食糧不足に耐えながら札幌建設に従事した<ref name="道新20201018"/>。
 
その年、[[明治天皇]]の[[詔]]により[[東京奠都|東京]]で[[北海道鎮座神祭]]が行われ、北海道開拓の守護神として開拓三神が鎮祭され、[[太政官#近代の太政官|太政官]]訓令の中に、[[石狩国|石狩]]に本府を建て、祭政一致の建前から神を祀る事を命ぜられた。そのため、島は北海道に渡る際、神祗官から開拓の三神を授けられ島は同年9月25日に函館に着き、単身開拓三神を背負って陸路札幌に向かい、10月12日に銭函に到着後、札幌市内に仮宮殿を設けた。また、銭函到着後直ちに先発隊を札幌に向かわせて神社予定地を見定め、現在の札幌市北5条東1丁目に仮宮殿を設け開拓三神を祀り[[一の宮]]とした。厳冬酷寒の雪国での都市建設は多額の費用と労力と困難を要した。また、石狩や小樽など西部13群の[[場所請負制|場所請負人]]を呼びつけて請負人制度の廃止を通告した。すると函館から、制度名を「漁場持」と変えて制度自体は「従前通リ」とするよう通達が回ってきた。そして[[岩村通俊]]が制度廃止を時期尚早とし、開拓費用を彼ら請負人に負担させるべきという意見書を書き送っている。結局、鍋島直正の後任である開拓長官・東久世通禧とは予算をめぐり衝突した。[[明治3年]]([[1870年]])[[1月19日 (旧暦)|1月19日]]、島は志半ばで解任された。そして[[松浦武四郎]]が函館に赴任した。松浦は偶然に函館の[[料亭]]で、役人が漁場持に、島同様に松浦も罷免に追い込むと口約束しているのを耳にした。松浦は陰謀を非難して1250字に及ぶ辞表を東久世に突きつけた。
=== 帰京後 ===
 
島は同年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]に帰京すると、[[4月2日 (旧暦)|4月2日]]に大学少監に昇任。さらに[[侍従]]を務めた。こうした帰京後の昇進を見ても、開拓使における島の解任理由は、かつて通説だった札幌建設の費用が巨額にのぼったためではなく、上述の場所請負人が持っていた利権との衝突によるとする説が現在は有力である(場所請負人たち明治3年1月、東京の[[刑部省#刑部省(明治時代)|刑部卿]]にも島に対する苦情を送っている。また資金不足は開拓使長官の東久世も認識していた)<ref name="道新20201018"/>。
 
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明治7年([[1874年]])に郷里・佐賀において憂国党の党首に担がれ、[[江藤新平]]と共に[[佐賀の乱]]を起こすが敗れ、[[鹿児島]]まで逃亡。[[島津久光]]を頼り、[[大久保利通]]に助命の旨を取り次いでもらうが受け入れられず、同年3月7日捕らえられ、4月13日に[[斬首刑|斬罪梟首]]となった。[[享年]]53。墓は佐賀市金立町の[[来迎寺]]にある。
 
[[Fileファイル:Grave of Shima Yoshitake Raigeiji.JPG|thumb|150px|島義勇の墓(佐賀市の来迎寺)]]
明治22年([[1889年]])、[[勅令]]第12号(「[[大日本帝国憲法|憲法]]ヲ発布スルニ当リ大赦ヲ行ハシムルノ件」または「大赦令」とも)により[[大赦]]となり、[[大正]]5年([[1916年]])4月11日、生前の勲功に対し[[従四位]]を贈られた。
 
== 銅像 ==
島は3ヵ所に[[銅像]]が建てられている。[[佐賀城公園]]の像は藩命で蝦夷地調査に出発する場面、[[北海道神宮]]の像は開拓三神の神鏡(みかがみ)を背負って札幌入りする場面、[[札幌市役所]]の像は丘の上から原野を見渡して札幌建設を志す姿をそれぞれ描いている<ref name="道新20201018"/>。[[円山公園 (札幌市)|円山公園]]には顕彰碑「島判官紀功碑」がある。円山公園には岩村通俊の銅像もある。命日の4月13日には北海道神宮で北海道開拓と神宮創祀のその功績を偲び、「島判官慰霊祭」が毎年催されている。北海道神宮[[宮司]]らによる「開拓判官島義勇顕彰会」も組織されている<ref name="道新20201018"/>。
 
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== 参考文献 ==
* [[秦郁彦]]編『日本近現代人物履歴事典』[[東京大学出版会]]、2002年。
 
== 関連項目 ==
{{Commonscat-inline|Shima_Yoshitake}}
* [[佐賀の七賢人]]
* [[義祭同盟]]
* [[弘道館 (佐賀藩)]]
 
== 外部リンク ==
{{Commonscat-inline|Shima_Yoshitake}}
 
* [http://www.dybooks.jp/shima/sample/ 漫画「島義勇伝」]
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