「フィリップ・ダルトワ (1269-1298)」の版間の差分

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'''フィリップ・ダルトワ'''('''Philippe d’Artois''', [[1269年]] - [[1298年]][[9月11日]])は、[[フランス]]王家傍系の[[アルトワ]]伯[[ロベール2世 (アルトワ伯)|ロベール2世]]とその妻アミシー・ド・クルトネー([[フィス・ド・フランス|フランス王子]][[ピエール1世・ド・クルトネー]]の曾孫)の間の息子。{{仮リンク|コンシュ=アン=ウーシュ|en|Conches-en-Ouche|label=コンシュ=アン=ウーシュ}}、{{仮リンク|メアン=シュル=イェーヴル|en|Mehun-sur-Yèvre|label=メアン=シュル=イェーヴル}}、{{仮リンク|ノナンクール|en|Nonancourt|label=ノナンクール}}およびドンフロン(Domfront)の領主。
 
== 生涯 ==
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*マリー(1291年 - 1365年) - 1309年、[[ナミュール伯|ナミュール侯]][[ジャン1世 (ナミュール侯)|ジャン1世]]と結婚
 
1297年8月20日に[[フランドル伯|フランドル伯家]]との{{仮リンク|フールネの戦い|en|Battle of Furnes|label=フールネの戦い}}に参加した際に重傷を負い、回復することの無いまま1年後の1298年9月に死去した。4年後の1302年に父ロベール2世伯が[[金拍車の戦い]]で戦死したとき、アルトワ伯領の跡目争いが起きた。アルトワ伯領は伝統的に男系相続より第一[[長子相続]]を重んじる土地であったため、フィリップの姉[[マティルド (アルトワ女伯)|マオー]]が実権の掌握に成功し、フィリップの未成年の息子ロベール3世は相続権を伯母に奪われる形となった。
 
== 出典 ==