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|参照法条=破壊活動防止法39条,破壊活動防止法40条,憲法21条,憲法31条,刑訴法338条,刑訴法339条,刑訴規則33条
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'''三無事件'''(さんゆうじけん<ref>堀幸雄『戦後の右翼勢力』158ページ</ref><ref>『政治反動と有翼テロ』196ページ</ref><ref>『日本憂国三代史』135ページ</ref>)は、[[1961年]]([[昭和]]36年)[[12月12日]]に[[日本]]で発覚した[[クーデター]]未遂事件。世間一般的には「さんむじけん」と呼ばれている<ref>小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)、株式会社平凡社 世界大百科事典、株式会社平凡社 百科事典マイペディア</ref>。国会を襲撃し、「[[三無事件#三無|三無主義]]」に基づく新政権の樹立を目指したが、警察の摘発により未遂に終わった<ref name=fukuya/>。
 
==概要==
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== 三無 ==
三無(さんゆう)とは無税・無失業・無戦争の三つの無の主張である<ref name=mainichi/>。彼らは老子の「無は有に転じる」という格言から、「さんむ」ではなく「さんゆう」と読んでいた。首謀者である川南豊作は川南工業の代表取締役を辞任したのち、社会変革の構想として関係者による参院選一斉立候補を考えており、そのキャッチフレーズとして「永久無税・永久無失業・永久無戦争」を挙げ、交流のあった[[矢野兼三]]の助言で[[林子平]]の六無に倣って、三無主義と名付けた<ref name=fukuya/>。構想執筆には[[クーデター合理論]]の[[小島玄之]]が協力し、[[日下藤吾]]、横田重左衛門(日本医科歯科大学教授)、[[佐野博]]らとも座談会を行なって考えを修正補強した<ref name=fukuya/>。
 
また、[[田形竹尾]]が紹介した学生運動家の川下佳節と老野生義明により三無塾が1961年5月に設立された。これは、金無く、名誉心無く、地位無き三無の若人が、川南の唱える無戦、無税、無失職の理想社会建設を目指すための勉強会で、市川市市会議員の富川進を顧問に[[市川市]]で発足した<ref name=fukuya/>。
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== 社会背景 ==
本事件発生の前年である1960年には、盛り上がる[[安保闘争]]に対抗するようにテロが続発した<ref name=fukuya/>。6月には日本社会党顧問[[河上丈太郎]]襲撃事件、10月には社会党委員長[[浅沼稲次郎暗殺事件]]、11月に掲載された[[深沢七郎]]の小説「[[風流夢譚]]」をきっかけに翌年2月には[[嶋中事件]]が起こっていた。本事件も当時の[[池田勇人]]内閣では共産革命を押えることはできない、という右翼陣営のあせりといらだちが招いた事件とされ<ref name=fukuya/>。
 
== 関与者 ==