「波多野元清」の版間の差分

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m 評定衆就任を「稙通」の俗説として否定する形に編集。他桂川合戦の部分を編集。
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生年は一次資料で確認できなかったので削除。桂川原の戦いへの不参加の可能性について記述。
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| 画像説明 =
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]
| 生誕 = [[応]]5年([[1496年]])
| 死没 = [[享禄]]3年([[1530年]])
| 改名 =
| 別名 = 波多野稙通<br>[[仮名 (通称)|通称]]:孫四郎、孫右衛門{{sfn|馬部|2018|pp=87-88}}
| 諡号 =
| 神号 =
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初め、[[仙甫寿登]]の弟子となって名を寿浩・号を養賢と名乗ったが、15歳の時に波多野氏を継ぐことになって還俗したという(馬部隆弘は早世などで家督を継げなかった長兄がいたと想定する){{sfn|馬部|2018|p=117}}。
 
父、清秀が[[永正]]元年([[1504年]])6月24日<ref>『[[幻雲文集]]』</ref>に没した後、9月の[[薬師寺元一]]の乱の討伐に参加する<ref>『[[不問物語]]』</ref>。[[細川政元]]暗殺後の[[細川澄元]]と[[細川高国]]の争いでは、高国方に転じている<ref>『[[不問物語]]』</ref>。
[[丹波国]]西部を支配する[[国人]]の一つに過ぎなかったが智勇兼備の名将で、[[八上城]]を築城した。多紀郡の[[丹波酒井氏|酒井氏]]を酒井合戦で、長沢氏を福徳貴寺の合戦で撃退した。その結果、丹波における[[丹波酒井氏|酒井氏]]、長沢氏らの有力な国人衆を次々と支配下に置き波多野氏を戦国大名へと発展させた。細川高国から信頼を得て次弟の[[香西元盛]]は永正4年([[1507年]])に死去した[[香西元長]]の名跡を、同じく三弟の[[柳本賢治]]は永正17年([[1520年]])に死去した[[柳本長治]]の名跡を継いでいる(賢治を兄、元盛を弟とする文献もあるが、当時の日記における記述<ref>『二水記』大永6年11月5日。『細川両家記』大永6年7月13日条。</ref>や実際に2人が両家に入嗣した時期、更には香西氏と柳本氏の家格の差から元盛が兄、賢治が弟とするのが正しい{{sfn|馬部|2018|p=117}})。
 
[[丹波国]]西部を支配する[[国人]]の一つに過ぎなかったが智勇兼備の名将で、[[八上城]]を築城した。多紀郡の[[丹波酒井氏|酒井氏]]を酒井合戦で、長沢氏を福徳貴寺の合戦で撃退した。その結果、丹波における[[丹波酒井氏|酒井氏]]、長沢氏らの有力な国人衆を次々と支配下に置き波多野氏を戦国大名丹波有数の勢力へと発展させた。細川高国から信頼を得て次弟の[[香西元盛]]は永正4年([[1507年]])に死去した[[香西元長]]の名跡を、同じく三弟の[[柳本賢治]]は永正17年([[1520年]])に死去した[[柳本長治]]の名跡を継いでいる(賢治を兄、元盛を弟とする文献もあるが、当時の日記における記述<ref>『二水記』大永6年11月5日。『細川両家記』大永6年7月13日条。</ref>や実際に2人が両家に入嗣した時期、更には香西氏と柳本氏の家格の差から元盛が兄、賢治が弟とするのが正しい{{sfn|馬部|2018|p=117}})。
[[大永]]6年([[1526年]])、香西元盛が[[細川尹賢]]の讒言を信じた[[細川高国]]に殺害されると、柳本賢治と共に[[細川晴元]]に呼応して蜂起し、攻め寄せてきた高国方の軍を破る。[[桂川原の戦い]]で[[三好政長]]らと共に高国を破り、波多野氏の名を大いに上げた。
 
[[大永]]6年([[1526年]])、香西元盛が[[細川尹賢]]の讒言を信じた[[細川高国]]に殺害されると、柳本賢治と共に[[細川晴元]]に呼応して蜂起し、攻め寄せてきた高国方の軍を破る。[[桂川原の戦い大永]]7年([[三好政長1527年]]らと共高国は病破り患っていたようで<ref>『二水記』大永7年2月13日</ref>当初は賢治と子の[[波多野秀忠|秀忠]]名をみが上洛しており<ref>『二水記』永7年2月16日</ref>、[[桂川原の戦]]上げも不参加だっ可能性がある
 
享禄3年(1530年)に病没した<ref>『厳助往年記』享禄3年6月2日条。『二水記』享禄3年6月8日条。</ref>{{sfn|馬部|2018|p=117}}。
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[[category:戦国大名]]
[[category:丹波国の人物]]
[[Category:1496年生]]
[[Category:1530年没]]