「小泉信三」の版間の差分

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1910年(明治43年)、[[慶應義塾大学|慶應義塾大学部]]政治科で[[福田徳三]]の指導を受けて卒業し、慶應義塾の教員となる。[[1912年]]([[大正]]元年<!-- <ref>1912年は[[7月30日]]を以って、元号が明治から大正に[[改元]]された。信三が留学を始めたのは9月であるので「大正元年」となる。</ref>)--><!-- 自明/脱線トリビア -->)9月<ref>小泉タエ『留学生小泉信三の手紙』[[文藝春秋社]]、1994年3月</ref> に研究のため[[ヨーロッパ]]へ留学し、[[イギリス]]、[[フランス]]、[[ドイツ]]の各大学で学ぶ。同じく留学中だった慶應義塾大学美術史家教授で、西洋美術史を初めて日本に紹介した[[澤木四方吉]]と親交を深める。イギリスへの留学中、小泉は1913年(大正2年)の[[ウィンブルドン選手権]]を観戦したことがあり、当時大会4連覇中だった[[アンソニー・ワイルディング]]の著書『On the Court and Off』(「テニスコートの内外で」)を日本に送り、大学の後輩たちに[[硬式テニス]]を推薦した。
 
1916年(大正5年)に帰国し、慶應義塾大学教授となり、[[デヴィッド・リカード]]の[[経済学]]を講義する。[[自由主義]]を論調とし、[[共産主義]]・[[マルクス経済学]]に対し徹頭徹尾合理的な批判を加えている。1933年(昭和8年)には[[慶應義塾#歴代塾長一覧|慶應義塾長]]に就任する。1934年(昭和9年)、「『リカアドオ』研究」で慶應義塾大学[[博士(経済学)|経済学博士]]<ref>{{cite web|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/500000494981|title=「リカアドオ」研究|website=CiNii Dissertations|accessdate=2019-09-12}}</ref>。1943年(昭和18年)[[帝国学士院]]会員に選出される。[[第二次世界大戦]]が始まると、小泉の一人息子・信吉(しんきち)も出征して戦死。そのときの嘆きを小泉は散文に著してこれを私家版として関係者に配ったが、これが死去後に『海軍主計大尉小泉信吉』で公刊され信三の代表作の一つとして知ら長く読まるようになった『海軍主計大尉小泉信吉』であている。小泉自身も1945年(昭和20年)の[[東京大空襲]]で、[[焼夷弾]]の接触により顔面に火傷を負ったためう重傷で、一時は[[高橋誠一郎]]が塾長代理を務めた。1947年(昭和22年)に塾長を任期満了で退任<!--し、後任に[[潮田江次]]が就任-->した。
 
その後1949年(昭和24年)に東宮御教育常時参与に就、[[明仁|皇太子明仁親王]](現在の[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]])の教育掛として、[[ハロルド・ニコルソン]]『[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]伝』や福澤の『[[帝室論]]』などを講義し、新時代の[[帝王学]]を説いた。1954年(昭和29年)には[[コロンビア大学上皇后美智子|美智子]]より人文学名誉博士号を贈られる。1959年(昭和34年)11月、[[文化勲章]]を受章皇太子妃実現にも大きく関与した
 
1953年『文藝春秋』2月号に「日本語」を発表、新仮名・漢字制限に反対し、4月、[[金田一京助]]が『中央公論』で、[[桑原武夫]]が『文藝春秋』で反論した。1954年(昭和29年)には[[コロンビア大学]]より人文学名誉博士号を贈られる。1959年(昭和34年)11月、[[文化勲章]]を受章
 
1966年(昭和41年)5月11日、[[心筋梗塞]]のため78歳で死去。贈[[正三位]]<ref>『藝能』[[1966年]]</ref>。<!-- 昭和51年(1976年)、[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入り。--><!-- なぜ? -->