「サモトラケのニケ」の版間の差分

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[[1950年]]に右手が発見され、ルーヴル美術館に保管されている。その手は大きく広げられている。
 
[[紀元前190年]]頃の制作とも推定され、[[ロードス島]]の人々が、シリアの[[アンティオコス3世]]との戦いで勝利できたので、勝利の女神ニケ(ニーケー)に感謝して、[[サモスラキ島]][[カベイロス]]神域の近くに立てた像と(も)推定されている<ref name="kotobank_britannica" />が、そのいわれや制作年に関しては諸説ある。→[[#年代と作者の推測]]
 
== ギャラリー ==
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この彫像についての古文書はひとつも発見されていないため、様式および傍証から年代を推定することしかできない。まず、[[デメトリオス1世 (マケドニア王)|デメトリオス1世ポリオルケテス]]の貨幣がこの像を表しているのではないかと考えられ、デメトリオス1世が海戦の勝利を祝って建造したと推測する説があった。この説によれば彫像は紀元前4世紀終わりから紀元前3世紀初頭の彫刻家の作ということになり、サモトラケ島で活動していた[[スコパス]]の弟子などが該当する可能性がある。しかしながら、サモトラケ島は当時デメトリオスと敵対関係にあった[[リシマクス]]([[リュシマコス]])の支配下にあり、ここにデメトリオスが像を建立したとは考えにくい<ref name="Hamiaux">Hamiaux [2000].</ref>。
 
次に、ロードス島の[[リンドス]]で発見された船を象った浮き彫りの形態と台座の大理石の由来から、彫像が[[ロードス島]]のものであり、[[コス島]]、{{仮リンク|シデ (トルコ)|label=シデ|en|Side, Turkey}}、あるいは{{仮リンク|ミヨニソスの戦い|label=ミヨニソス|en|Battle of Myonessus}}での勝利を祝したものと考える説がある。年代はそれぞれ[[紀元前261年]]頃、[[紀元前190年]]、おなじく紀元前190年である<ref name="Hamiaux" />。
 
この時期は[[大プリニウス]]にも言及されている<ref>''Histoire naturelle'' (XXXIV, 91).</ref> [[チモカリス]]の息子ピトクリトスが彫刻家として活動していた時期に符合する。ピトクリトスはリンドスの[[アクロポリス]]の彫像を手がけたことでも知られている。そしてシャンポワゾは1892年、彫像の直近からロードス島ラルトス産の大理石の断片を発見したが、これには「…Σ ΡΟΔΙΟΣ / …S RHODIOS」という表記があり<ref>Fragment Ma 4194, H. 5 cm, L. cons. 8 cm, ép. cons. 16 cm.</ref>、「ロードスのピトクリトス」に符合する可能性を示すものとして注目された。しかしながら、この断片とニケの彫像が置かれていた[[エクセドラ]](半円状に突出した建築部位)の関係は明らかではなく<ref>Smith, p. 78.</ref>、とりわけ、この断片の小さな凹部はそれが小像の台座であることを物語っている<ref>Hamiaux [1998, n. 51, p. 41.]</ref>。
 
他に、この彫像が[[アンティゴノス2世ゴナタス]]の奉納物であるとする説がある。すなわち紀元前250年代のコス島での[[プトレマイオス2世]]に対する勝利の記念物である。アンティゴノス2世はデロス島に彫像を建立していることから、[[アンティゴノス朝]]が伝統的に守ってきた聖域であるサモトラケ島にも同様なことを行っていたと考えることは可能である<ref>Smith, p. 79.</ref>。
 
他の検討の可能性として、ニケの彫像をペルガモンの大祭壇のフリーズに彫られた人物像と比較する研究者もいた<ref name="Hamiaux" />。