「亀井茲矩」の版間の差分
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{{基礎情報 武士
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▲| 戒名 = 光武院殿中山道月大居士(譲傳寺)<br/>凌泰院殿中山道月大居士(雲龍寺)<br/>前武州太守中山道月大居士
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▲| 墓所 = [[鳥取県]][[鳥取市]][[気高町]]田仲<br/>[[島根県]][[鹿足郡]][[津和野町]]後田の亀井家墓所内<br/>[[京都府]][[京都市]][[左京区]]黒谷の[[金戒光明寺]]墓地
▲| 官位 = [[従五位|従五位下]][[武蔵国司|武蔵守]]、[[贈位|贈]][[従三位]]([[1912年]])
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▲| 主君 = [[尼子勝久]]、[[豊臣秀吉]]、[[豊臣秀頼|秀頼]]、[[徳川家康]]、[[徳川秀忠|秀忠]]
▲| 藩 = [[因幡国|因幡]][[鹿野藩]]主
▲| 父母 = [[湯永綱]]、[[多胡辰敬]]娘<br/>''[[亀井秀綱]]''
▲| 兄弟 =
▲| 妻 = '''[[山中幸盛]]養女時子'''、'''[[多胡重盛]]娘'''
▲| 子 = '''[[亀井政矩|政矩]]'''、[[松平忠清]]室ら
}}
▲'''亀井 茲矩'''(かめい これのり)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]、[[大名]]。[[因幡国]][[鹿野藩]]初代藩主。
== 生涯 ==
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* 茲矩が朝鮮出兵時に虎狩で得た虎を京都の秀吉の元へと送った際、秀吉は朝鮮の茲矩へと礼状を返している。この礼状の花押は秀吉のものだが、執筆したのは祐筆役を務めた[[長束正家]]であり、書状上段で感謝を述べる傍ら、下段には守将たる茲矩らへの防禦指示も綴られ、長きに渡り共に秀吉の股肱として働いた両者ならではのやりとりの円滑さが見て取れる<ref>[[太鼓谷稲成神社]]所蔵『贈虎礼状』</ref>。このわずか数年後には関ヶ原の戦いが起き、西軍側の正家は[[水口岡山城]]へと退却・籠城するも、そこへ寄せ手として現れたのが東軍側の茲矩であり、助命を条件に正家は降伏、水口岡山城は開城している(助命叶わず正家は切腹)。
* 茲矩は家康に次いで[[朱印船]]貿易のための西洋型帆船を自主建造しようとした大名である。ただし建造には至らず、[[慶長]]13年([[1608年]])に6万斤積(積載重量約250t)の「くろふねなりの船」の建造計画を立てて薩摩産の樟材などの材料を集めたが未成に終わった<ref>{{Citation|和書|author=石井謙治|chapter=近世初期の西洋型帆船|editor=須藤利一|title=船|publisher=法政大学出版局|series=ものと人間の文化史 1|year=1968}}</ref>。
== その他 ==
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{{Normdaten}}
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[[Category:亀井氏|これのり]]
[[Category:戦国武将]]
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