「レバノン」の版間の差分

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[[1982年]]、レバノンの武装勢力から攻撃を受けたとして、イスラエル軍は南部から越境して再侵攻({{仮リンク|レバノン戦争 (1982年)|en|1982 Lebanon War|label=レバノン戦争}}。ガリラヤの平和作戦とも)、{{仮リンク|ベイルート包囲戦|en|Siege of Beirut|label=西ベイルートを占領}}した。イスラエルはPLO追放後に撤収したが、南部国境地帯には親イスラエルの勢力を配し、半占領下に置いた。この混乱を収めるために米・英・仏を中心とする多国籍軍が進駐したが({{仮リンク|レバノン駐留多国籍軍|en|Multinational Force in Lebanon}})、イスラム武装組織の激しい自爆攻撃によって多数の兵士を失い({{仮リンク|駐レバノンアメリカ大使館爆破事件|en|1983 United States embassy bombing}})、一部でシリア軍とアメリカ軍の戦闘にまで発展した([[ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件]])。結局、多国籍軍は数年で撤収し、レバノン介入の困難さを世界へ示すことになった。
 
[[1990年]]に{{仮リンク|シリア軍のレバノン侵攻 (1990年)|en|October 13 massacre|label=シリア軍が再侵攻}}、紛争を鎮圧し、シリアの実質的支配下に置かれた。シリアの駐留はレバノンに一応の安定をもたらしたものの、ヒズボラに対する援助やテロの容認などで国際的な批判をうけた。シリアが2005年に撤退するまでの約15年間は「[[パクス・シリア]](シリアによる平和)」とも呼ばれ、撤退以降も政府高官を含めシリアの影響は強いとされる。
 
[[1996年]]にイスラエル国内で連続爆弾テロが発生し、ヒズボラの犯行と断定したイスラエル軍は、レバノン南部を空襲した({{仮リンク|怒りのブドウ作戦|en|Operation Grapes of Wrath}})。この時、レバノンで難民救援活動を行っていた[[国連レバノン暫定駐留軍]]の[[フィジー軍]]部隊のキャンプが集中砲撃される事件が発生、イスラエルは非難された。イスラエル軍は[[2000年]]に南部から撤収するが、空白地帯に素早くヒズボラが展開し、イスラエルに対する攻撃を行っている。