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=== 痘苗伝来 ===
[[嘉永]]2年(1849年)6月26日、[[バタヴィア]]からオランダ船が
痘苗が福井城下まで植え継がれる日どりは以下の通りである。
痘苗が福井城下まで植え継がれる日どりをみていこう。[[長崎奉行]]所の唐通司頴川四郎八は、外科の姉山健輔に依頼して8月28日、孫2人に種痘を受けさせて得た痘痂を、9月6日に京都の[[日野鼎哉]](1797-1850、笠原良策の師)のもとに発送し、日野はこれを9月19日に受け取った<ref>『白神記』p.1-2・75・80。これは小瓶に入った8粒の痘痂であった。京都で受けとった日付けについては、9月16日、19日、22日と笠原の書状のなかでも混乱がある。</ref>。一方、痘苗伝来の知らせをうけて9月晦日に福井城下を出発した笠原が京都の日野宅に到着したのは、10月5日<ref>『戦兢録』p.2。</ref>であった。同月16日には日野の除痘館が開館<ref>『戦兢録』p.3。</ref>し、笠原はここで種痘に関わって詳細な接種法を学んだ。この間、伝苗を依頼してきた大坂の[[緒方洪庵]]・日野葛民(鼎哉弟)らに11月1日に分苗するとともに、同月7日の道修町種痘所の開設に臨席して福井藩で種痘が断絶にした際の備えとして、京都と同様に分苗する旨を申述し、接種法を伝授した<ref>笠原は、いまだ国許へ「受苗」していない段階ではあるが、大坂が京都同様の大都市であり、かの地に種付くならば「益根本堅固」となり、また緒方らも「不凡の人々」であることから「本月朔日伝苗致置申候」と記している(『白神記』p.11)。さらに、種痘法の伝授を請われたため、11月6日日野鼎哉の門人西村啓蔵小児を雇い日野とともに下坂、11月7日に小児8名に笠原・緒方・日野らが執刀し、10日まで大坂に滞在して順調に「見点」が出ていることを診断したうえで帰京した(『白神記』pp.11-13。『戦兢録』p.6・7)</ref>。▼
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そして11月下旬、当時痘苗を移動する際に最も確実である人から人に植え継ぐ方法によって笠原は、雪の[[栃ノ木峠]]を越えて、11月25日、福井城下へ痘苗をもたらした。福井までの足取りは、以下のとおりである<ref>『戦兢録』pp.8-9</ref>。▼
▲そして11月下旬、当時痘苗を移動する際に最も確実である人から人に植え継ぐ方法によって、笠原らは
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|+ 笠原良策らの京都から福井までの行程(嘉永2年)
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