「逸見政孝」の版間の差分

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== 生涯 ==
父親は[[広島県]][[尾道市]]の出身で[[旧姓]]は毛利<ref name="マジメまして逸見です">自著『マジメまして逸見です Majime it's Me』[[扶桑社|フジテレビ出版]]、1985年、34-49頁</ref><ref name="魔法のまじめがね">自著『魔法のまじめがね—ブラウン管は思いやり発信局』[[文芸春秋]]、1989年、14、15頁</ref>、逸見家に[[養子]]入<ref name="マジメまして逸見です"/>。父親は長く[[なみはや銀行|福徳相互銀行]]に勤務した<ref name="マジメまして逸見です"/><ref name="魔法のまじめがね"/>。時期は不明だが、[[桑名正博]]の父が経営する桑名興業の経理をしていたと本人が『[[夜も一生けんめい。]]』の番組内で語っている。母親は大阪の出身<ref name="マジメまして逸見です"/><ref name="魔法のまじめがね"/>。子供の頃から映画鑑賞が趣味で、特に[[チャップリン]]と[[黒澤明]]の作品は全て観たという。「この2人に関しては映画評論家の方たちと話してもなんとかなる」と自信を持っていた。逸見が挙げた日本映画の最高傑作も黒澤の『[[生きる (映画)|生きる]]』だった。フジテレビに入社して間もない頃は、映画番組を担当している先輩アナウンサーのところに映画の試写会の案内が多く届くのを見て「自分もああなりたい」と思っていたという。後年、映画賞の審査員にも起用され、それがきっかけで逸見にも映画試写会の招待状が届くようになって希望は果たされた<ref name="マジメまして逸見です"/><ref name="魔法のまじめがね"/>。
 
[[大阪市立阪南小学校]]、[[大阪市立阪南中学校]]を経て、[[大阪府立阿倍野高等学校]]を卒業後、一浪して、[[早稲田大学第一文学部]]演劇学科に入学<ref>『マジメまして逸見です Majime it's Me』、51-76頁</ref>。大学ではアナウンス研究会に所属。大阪出身であったため[[大阪弁|大阪方言]]を話していたが、[[標準語]]のアクセントを徹底的に覚えた。ラジオとテープレコーダーを購入し、ラジオでアナウンサーの声を聞き、テープレコーダーで新聞記事を読む自分の声を録音。アクセント辞典を見ながら、録音した自分の声を聞き、間違ったアクセントで発音した語句は、ペンでマーク。また、その語句を黒板に書き、覚えるまで消さないようにした。さらに、日常でも標準語で話すようにした。
 
高校卒業直後に[[関西学院大学]]の受験に失敗した際、当時付き合っていた女性にふられてしまい、「見返してやりたい」という気持ちと高校時代に放送部に在籍し、「自分にもできそうで高収入の仕事」という理由から、在京テレビ局のアナウンサーを志したという。早稲田大学に進んだのも、アナウンサーになるのに最も有利な大学という判断からだった。逸見の大学時代は学生運動の盛んな時期だったが、就職に向けた準備に追われて目もくれなかったという<ref name="マジメまして逸見です"/>。大阪弁を完全に矯正して専ら標準語で話していたが、一方で、言葉以外では関西出身者としての誇りを持ち続けた。当時大阪から東京に進出したばかりで全国的には無名だったお笑いコンビの[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]などの若手タレントを可愛がり、[[日本プロ野球|プロ野球]]は当時低迷が続いていた[[阪神タイガース]]を生涯変わらず愛し続けた関東での阪神の試合には、家族で頻繁に応援に訪れていた。父親、逸見、そして息子の太郎と親子3代続く[[阪神ファン]]だと著書で公言している<ref name="魔法のまじめがね"/>。
 
=== フジテレビ時代 ===
フジテレビのアナウンサー試験では試験官から出身地を確かめられたという程の実力で、フジテレビ入社後には毎年の新社員研修にて「当社にはアクセント辞典を食べた特異体質の男がいる」と語られるようになる。逸見は自著で「大学時代、フランス語辞典は真っ白だったが、アクセント辞典は真っ黒だった」と語っている。父親に「アナウンサーになりたい」と告げると「お前のやりたいようにやれ」と認められた。
 
早稲田大学の同期で友人でもあった[[松倉悦郎]]とともに、フジテレビのアナウンサー試験を突破し、大学卒業後の[[1968年]]にフジテレビに入社した(他の同期入社にはアナウンサーでは[[山川建夫]]、[[小林節子 (フリーアナウンサー)|小林節子]]、[[竹下典子]]、[[山根佳代子]]<ref>{{Facebook post|shimon.yuki|1000024440073573|Shimon Yuki(松倉悦郎)2016年3月12日の投稿}}</ref>、他職では[[坂井義則]]がいる
 
最終面接の際、当時の[[鹿内信隆]]社長が「早稲田の文学部から2人受けているか。君、どちらか1人しか受からないとなったらどうするかね?」という質問をした。質問に困り果てた逸見はとっさに「そ、それは困ります」と答え<ref>後に鹿内の娘婿である[[鹿内宏明]]が同局のアナウンサーとなった[[木幡美子]]の入社試験での面接の際にも木幡に対して同じ質問を行っている。また木幡の回答も逸見と同じものであった。</ref>、その場にいた重役たちは笑みを浮かべた。逸見は、「松倉にも同じ質問をして松倉も同じように答えたのだな」と思ったという。この言葉が最終的に2人そろっての採用の決め手になったと言われる。なお、[[1967年]][[7月3日]]午後5時というフジテレビの入社試験の合格発表の日時を逸見は終生覚えていたという。また、並行して高校の先輩の[[乾浩明]]がいた地元・大阪の[[朝日放送]]の入社試験も受けてカメラテストまで通過していたが、フジテレビの内定を得たため辞退した<ref name="マジメまして逸見です"/>。