「乱妨取り」の版間の差分

より検証可能な形で具体的な出典の明示が求められるにせよ、理由を述べることなく記述を大きく削除するのは"乱妨"だと思います。なので、T.shinzaemonさんの2021年1月30日 (土) 15:08(UTC)の2つの編集を取り消します。
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(より検証可能な形で具体的な出典の明示が求められるにせよ、理由を述べることなく記述を大きく削除するのは"乱妨"だと思います。なので、T.shinzaemonさんの2021年1月30日 (土) 15:08(UTC)の2つの編集を取り消します。)
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当時の軍隊における兵士は農民が多く、食料の配給や戦地での掠奪目的の自主的参加が見られた。[[人狩り]]の[[戦利品]]が戦後、市に出され、大名もそれら乱暴狼藉を黙過したり、褒美として付近を自由に乱取りさせた。それら狼藉は悪事ではないとされた。
 
[[凶作]]・[[水害]]・[[疫病]]が起こると、大名は食料獲得のため隣国へ戦争をした。その結果として領土を獲得し、家臣団に与えて[[下克上]]の芽を摘み取った。その上で、戦場付近の村を襲い、農作物を根こそぎ奪い、農民をさらい売り払うか奴隷にするかした。人身売買の相場は、通常2[[貫|貫文]](約30万円)であったが、大量に乱取りが行われる戦の直後は25文(約4千円)に急落した。
 
== 桶狭間の戦い ==
[[織田信長]]の[[桶狭間の戦い]]での勝因を、「民家への略奪行為で油断する今川方を急襲したから」とする説を、[[黒田日出男]][[東京大学]][[名誉教授]]が唱えている。勝因について、[[明治]]時代には[[日本陸軍|陸軍]]を中心に迂回奇襲説が、近年では『[[信長公記]]』に基づいて正面攻撃説が主流である。だが、黒田は『[[甲陽軍鑑]]』に着目し、「記憶違いはあるが、悪意の捏造はなく、体験に基づく良質な史料」と断定した。そして、当時武田氏と今川氏は同盟していたため「敗因を間違えるとは考え難く、第三者が敗者から得た信頼できる情報に基づく」とした。『甲陽軍鑑』には「その日の(事前にあった別の)戦いに勝ったと思った今川軍が略奪に散る中、織田軍が味方のように入り交じり、義元の首を取った」とあり、また別の史料で[[徳川家康]]が「今川軍が略奪し、油断していた」と証言したのも確認した。黒田は略奪を"乱取り"と呼び、新説を「乱取り状態急襲説」と名付けた。
 
== 大坂の陣 ==