「少年 (谷崎潤一郎)」の版間の差分

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== 概説 ==
谷崎の創作としては8作目に当たるこの小説が発表されたのは1911年で、谷崎はこのときまだ[[東京帝国大学]][[国文学]]科に在籍していた。前年の「[[誕生 (谷崎潤一郎)|誕生]]」、「[[刺青 (小説)|刺青]]」、「[[麒麟 (小説)|麒麟]]」が同人雑誌であった第二次『[[新思潮]]』に掲載されたのに対し、「少年」は『[[スバル (文芸雑誌)|スバル]]』上で発表された。これは『新思潮』が1911年3月号に載せた[[芦田均]]訳の「パンテオンの対話」が問題となって[[発禁]]処分となった<ref>{{Cite book|和書|title=谷崎潤一郎伝|date=|year=2006|publisher=中央公論新社|pages=46|author-linkauthorlink=小谷野敦|author=小谷野敦}}なお、同氏編纂の[http://akoyano.la.coocan.jp/tanizaki/1905-1914.html 年譜]がインターネット公開されている。</ref>ことに伴い谷崎が『スバル』へ移ったことによるが、結果として「少年」は多くの読者に読まれることとなり、谷崎が作家として一躍有名になるきっかけとなった。後年、自身で「[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]卿の例を引くのも烏滸がましいが、由来私は最も花々しく文壇へ出た一人であるとされてゐる」としながらも実際に「世間に認められるやうになつたのは、(中略)「新思潮」が廃刊した後、六月の「スバル」に「少年」を書き、七月(?)の同誌に「[[幇間 (小説)|幇間]]」を書いた前後からだつた」<ref>{{Cite book|和書|title=青春物語|date=|year=1933|publisher=中央公論社|pages=38|author=谷崎潤一郎|chapter=「新思潮」創刊前後のこと」}}「幇間」の発表は実際には9月のこと。</ref>と述べている通り、それまでの作品が自身の期待に反して殆ど文壇からの反響がなかった<ref>{{Cite book|和書|title=青春物語|date=|year=1933|publisher=中央公論社|pages=35|author=谷崎潤一郎|chapter=「新思潮」創刊前後のこと」}}</ref>だけにこの変化は著しいものだった。「少年」の発表から一月後の7月、谷崎は以前からの授業料未納で大学から退学処分を受け<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=谷崎潤一郎伝|date=|year=2009|publisher=中央公論新社|pages=49|author=小谷野敦}}</ref>、いよいよ商業作家となったが、『[[二六新報]]』などはこのことを報じて「帝大国文科に在学中二三篇の創作を発表せしところ案外にも好評を博したるより稍有頂天となり退学して創作家の生活に入るべしとは余りに己惚れ過ぎたる男と云ふべし」<ref>{{Cite news|和書|title=文藝消息|date=1911-11-8|newspaper=二六新報}}</ref>と揶揄した。
 
作品の舞台となっているのは谷崎自身が幼少期を過ごした日本橋蠣殻町界隈で、「創作余談 その二」や『幼少時代』<ref>{{Cite book|和書|title=幼少時代|date=|year=1957|publisher=文藝春秋|pages=81-82|author=谷崎潤一郎|chapter=幼友達}}</ref>において作中の建物・登場人物・出来事といった事象にも実際にモデルがあったものが多いことを明かしている。ただ、信一ら登場人物とは違い、谷崎は有馬小学校ではなく[[中央区立阪本小学校|阪本小学校]]の出身であり、「ふるさと」でも「私の親戚の大部分は有馬学校出身なので、私にもこの学校の思い出がないわけではない」<ref>{{Cite book|和書|title=谷崎潤一郎随筆集|date=|year=1985|publisher=岩波書店|pages=263|chapter=ふるさと|editor=[[篠田一士]]|author=谷崎潤一郎|editor-link=篠田一士}}</ref>と述べている。
 
== 評価 ==
 
=== 『刺青』処女作神話 ===
「谷崎潤一郎氏の作品」は「明治現代の文壇に於て今日まで誰一人手を下す事の出来なかつた、或は手を下さうともしなかつた藝術の一方面を開拓した成功者は谷崎潤一郎氏である」<ref>{{Cite journal|和書|author=永井荷風|month=11|year=1911|title=谷崎潤一郎氏の作品|journal=三田文学|volume=2|issue=11|page=148}}</ref>などと一貫して谷崎文学を賞賛する文章で、谷崎が「そのお陰で私は一と息に文壇へ押し出てしまつた」<ref>{{Cite book|和書|title=青春物語|date=|year=1933|publisher=中央公論社|page=54|author=谷崎潤一郎|pages=|chapter=紅葉館での新年会のこと}}</ref>と語っている通り彼の作家としての地位確立につながったことがよく知られている。またそのすぐ後に出版された処女作品集『刺青』によって華麗な文壇デビューを果たしたということも有名で、こうした出発期の出来事を「日本近代文学史上の最有名エピソード」<ref name=":2">{{Cite journal|和書|author=椎名健人|month=3|year=2018|title=作家間の師弟関係と承認の機能——永井荷風『谷崎潤一郎氏の作品』を手がかりに|url=http://hdl.handle.net/2433/230309230310|journal=研究紀要 教育・社会・文化|volume=|issue=18|page=4}}</ref>と言う論者もいる。しかし、中島国彦の調査によれば『刺青』はもともと『少年』という題名で本作を中心とした作品集となる予定であった。中島は「谷崎潤一郎氏の作品」が「刺青」を「氏の作品中第一の傑作」<ref>{{Cite journal|和書|author=永井荷風|month=11|year=1911|title=谷崎潤一郎氏の作品|journal=三田文学|volume=2|issue=11|page=149}}</ref>と特記したことを受けて刊行直前に表題と編成が変更された可能性を論じるとともに、反響の大きさから言えば「実質的な文壇的処女作は『少年』であった」<ref name=":2" />にも関わらず、「荷風の谷崎賞賛の一文を境に、谷崎といえば『刺青』、という結び付きが強固になって行った」一連の経緯を「『刺青』処女作神話」<ref>{{Cite journal|和書|author=中島国彦|month=8|year=1978|title=作家の誕生——荷風との邂逅|journal=[[國文學]]|volume=23|issue=10|page=17}}</ref>と呼んだ。
 
=== 研究者による評価 ===