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'''和製ポップス'''(わせいポップス)とは、[[欧米]][[ポピュラー音楽|ポップス]]の影響を契機とし受け日本人が[[作詞]]・[[作曲]]・歌唱した[[歌謡曲]]のジャンルの一つ。
{{出典の明記|date=2019年7月2日 (火) 02:25 (UTC)}}
'''和製ポップス'''(わせいポップス)とは、[[欧米]][[ポピュラー音楽|ポップス]]の影響を契機として日本人が[[作詞]]・[[作曲]]・歌唱した[[歌謡曲]]のジャンルの一つ。
 
[[1960年代]]には和製ポップスと同義語として'''ジャポップス'''という呼び名も使われていたが、すぐに使用されなくなった。
 
== 歴史 ==
[[戦前]]の和製ポップスの最初期の例としては、二村定一がジーン・オースチンの「マイ・ブルー・ヘブン」をカバーした「青空」があげられる<ref>{{Cite web|url=https://www.allmusic.com/artist/gene-austin-mn0000193843/biography|title=Gene Austin Biography|last=Chadbourne|first=Eugene|publisher=AllMusic | accessdate=5 February 2021}}</ref>。戦前から活躍していた[[服部良一]]の一連の作品がルーツであるとも云われているの一つだが、[[小林亜星]]は「日本のポップスの歴史は、戦前から戦後にかけて活躍した[[灰田勝彦]]さんにそのルーツをさかのぼる」と評している<ref>[[東京スポーツ]]連載 [[小林亜星]]「アセイのあなろぐ語録」(43) 2008年6月20日付</ref>。より直接的には、[[戦後]]において戦勝国は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の消費文化への憧れの心情と共に流行した「[[カバーポップス]]」を消化吸収する過程で生まれた。
 
和製ポップスの実質的な第1号として認知されたのはザ・ピーナッツの「[[可愛い花]]」([[1959年]])とされている。この楽曲以前にもポップス曲を歌う日本人歌手の事例もあるにはあった<!--浜村美智子のバナナ・ボート辺りだろうか?-->が、「ポップス」と言うジャンルはほとんど認知されていなかった。
 
[[1961年]]の[[坂本九]]の「[[上を向いて歩こう]]」(作詞:[[永六輔]]、作曲:[[中村八大]])、[[1962年]]のザ・ピーナッツの「[[ふりむかないで (ザ・ピーナッツの曲)|ふりむかないで]]」(作詞:[[岩谷時子]]、作曲:[[宮川泰]])前後から次第に認知されるようになった。
 
戦後の和製ポップスの例としては、浜村美智子の「バナナ・ボート」や、ザ・ピーナッツの「[[可愛い花]]」([[1959年]])がある。
その頃の和製ポップスの代表的な歌手は他に、[[梓みちよ]]、[[伊東ゆかり]]、[[中尾ミエ]]、[[園まり]](伊東/中尾/園の3人の総称を[[スパーク3人娘]]とする時期もあった)等が挙げられる。
 
60年代前半には[[1961年]]の[[坂本九]]の「[[上を向いて歩こう]]」(作詞:[[永六輔]]、作曲:[[中村八大]])、[[1962年]]のザ・ピーナッツの「[[ふりむかないで (ザ・ピーナッツの曲)|ふりむかないで]]」(作詞:[[岩谷時子]]、作曲:[[宮川泰]])前後から次第に認知されるよう。60年代中期の和製ポップスの代表的な歌手は他、[[伊東ゆかり]]、[[中尾ミエ]]、[[園まり]](伊東/中尾/園の3人は[[スパーク3人娘]]との名称もあったが、あまり浸透しった)等が挙げられる
なお、エミー・ジャクソンの「[[涙の太陽]]」が和製ポップス第一号との意見もある。それは[[作曲家]]が日本人である点、歌詞が英語であるにも関わらず日本国内向けに制作された点、洋楽レーベルから発売された点、そして従来の歌謡曲からは独立した[[日本]]のポップスを作りたいという洋楽部所属のディレクターによって制作されたからである。
 
なおまた、エミー・ジャクソンの「[[涙の太陽]]」和製ポップス第一号と意見も一曲である。その理由[[作曲家]]が日本人である点、歌詞が英語であるにも関わらず日本国内向けに制作された点、洋楽レーベルから発売された点、そして従来の歌謡曲からは独立した[[日本]]のポップスを作りたいという洋楽部所属のディレクターによって制作されたからでことなどがげられる。
1960年代後半から歌謡曲側との交流を深め、多くの[[作詞家]]、[[作曲家]]が楽曲を提供し、それ以前のカバーポップスに取って代わり、[[演歌]]系と並ぶ歌謡曲の2大ジャンルに成長した。
 
1960年代の歌謡曲では、[[筒美京平]]、[[川口真]]、[[馬飼野康二]]らが優れた楽曲を量産した。
[[1980年代]]前半頃から再流行した言葉でもあるが、その範囲は概ね[[ニューミュージック]](の一部)と[[シティ・ポップス]]と呼ばれる範囲である。
 
[[1970年代]]半からの[[ニューミュージック]]、[[1990年]]頃に'''からの[[J-POP]]'''という呼び名取って代わられよりほとんど用和製ポップスの伝統は消滅してられなくなった
 
== 脚注 ==