「潘璋」の版間の差分
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[[215年]]、孫権は劉備に荊州返還を求めるが劉備は応じず、呂蒙等と共に荊南三郡を取り、呂蒙は三郡を孫河に任せてその日のうちに益陽に向かっている。
[[合肥の戦い]]では[[曹操]]軍の[[張遼]]が急襲する前に先遣部隊の[[陳武]]が戦死し、[[宋謙]]や[[徐盛]]の軍も敗れ兵士が逃げ出そうとする。この余りに不意打な攻撃に、孫権軍の先遣部隊はすっかり意気消沈し、潘璋は後方から馬を駆って前線に赴き、逃亡する宋謙軍や徐盛軍の兵士を2名ほど斬ったので逃亡していた兵は取って返してこれと戦ったが、先遣部隊の崩壊を防いだ。潘璋は陳武・徐盛・宋謙らの軍勢を引き連れ、張遼を食い止めた。潘璋により士気を呉軍は取り返し、これを見た孫権は潘璋の現場判断力を見て高く評価、この功績が孫権に認められ偏将軍となり、百校の任務を任され、半州に駐屯した。
[[219年]]の[[関羽]]討伐では、[[朱然]]とともに関羽の退路を断つ任務を受け、臨沮へ赴き夾石へ軍を進めた。部下の[[馬忠 (孫呉)|馬忠]]が関羽・[[関平]]・[[趙累]]を生け捕りにする功績を挙げたため、宜都郡より巫・秭帰の2県を分割して新設された固陵[[太守]]を任され、さらに振威将軍・溧陽侯となった。
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[[甘寧]]が死去すると、その軍の指揮も任された。[[222年]]、[[夷陵の戦い]]にも参戦し[[陸遜]]と協力して[[蜀漢]]の[[劉備]]を破った。部下が蜀の大督をしていた[[馮習]]を討ち取るという大功を立て、その他敵将や兵士の多くを殺傷したため、平北将軍・[[襄陽市|襄陽]]太守となった。
同年、[[魏 (三国)|魏]]の[[曹真]]・[[夏侯尚]]・[[張郃]]らが[[南郡 (中国)|南郡]]に攻め
[[226年]]、孫権は江夏を攻めたが、潘璋も参加した。殿軍を潘璋に任せて撤退すると、夜間に撤退の途中で混乱が生じ、潘璋はこれを止められず、文聘は
[[228年]]の石亭の戦いでは、周魴が偽降の調略のため魏の曹休に宛てた手紙の中で、潘璋が、陸遜と共に梅敷を討伐し、平定した。実際にこうした命令があったがどうかは不明である。
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