削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
27行目:
[[215年]]、孫権は劉備に荊州返還を求めるが劉備は応じず、呂蒙等と共に荊南三郡を取り、呂蒙は三郡を孫河に任せてその日のうちに益陽に向かっている。
 
[[合肥の戦い]]では[[曹操]]軍の[[張遼]]が急襲する前に先遣部隊の[[陳武]]が戦死し、[[宋謙]]や[[徐盛]]の軍も敗れ兵士が逃げ出そうとする。この余りに不意打な攻撃に、孫権軍の先遣部隊はすっかり意気消沈し、潘璋は後方から馬を駆って前線に赴き、逃亡する宋謙軍や徐盛軍の兵士を2名ほど斬ったので逃亡していた兵は取って返してこれと戦ったが、先遣部隊の崩壊を防いだ。潘璋は陳武・徐盛・宋謙らの軍勢を引き連れ、張遼を食い止めた。潘璋により士気を呉軍は取り返し、これを見た孫権は潘璋の現場判断力を見て高く評価、この功績が孫権に認められ偏将軍となり、百校の任務を任され、半州に駐屯した。
 
[[219年]]の[[関羽]]討伐では、[[朱然]]とともに関羽の退路を断つ任務を受け、臨沮へ赴き夾石へ軍を進めた。部下の[[馬忠 (孫呉)|馬忠]]が関羽・[[関平]]・[[趙累]]を生け捕りにする功績を挙げたため、宜都郡より巫・秭帰の2県を分割して新設された固陵[[太守]]を任され、さらに振威将軍・溧陽侯となった。
33行目:
[[甘寧]]が死去すると、その軍の指揮も任された。[[222年]]、[[夷陵の戦い]]にも参戦し[[陸遜]]と協力して[[蜀漢]]の[[劉備]]を破った。部下が蜀の大督をしていた[[馮習]]を討ち取るという大功を立て、その他敵将や兵士の多くを殺傷したため、平北将軍・[[襄陽市|襄陽]]太守となった。
 
同年、[[魏 (三国)|魏]]の[[曹真]]・[[夏侯尚]]・[[張郃]]らが[[南郡 (中国)|南郡]]に攻め入り、援軍に赴いた[[孫盛 (孫呉)|孫盛]]が張郃に撃退された。夏侯尚は先鋒のうちの3万人を率いて、浮き橋を作って[[長江]]の中州百里洲に渡り、そこに陣営を設け軍勢を駐屯させた。諸葛瑾・楊粲が手勢を合わせて救援に駆けつけたが、なすすべを知らなかった。大量の魏軍は毎日、続々と中洲へと渡った。潘璋は「魏の軍勢は始め盛んで、江水もまだ浅く、まだ戦うべきではありませぬ」と言い、軍力を温存し、魏軍の攻勢を避けていた。潘璋は上流から、温存の対策として水城を築いて水を貯める。ただちに手勢を率いて魏軍より五十里ほど上流へ行き、水城を築いて水を貯め、数百万束の葦を刈って大筏を作り、火を着けて流し、浮橋を焼き払おうとした。ちょうど筏を作り終えて増水に乗せて流そうとしたとき、この計画を実行に移す前に夏侯尚は曹丕の勅命で中州から撤退した。潘璋はこれを見逃さず水城や満潮により水軍を引き連れ、追撃ま魏軍を苦しめ、諸葛瑾と共に魏軍を退させた。戦い後、潘璋は呂蒙の後を継いで陸口の守備にあたることになった<ref>『呉書』潘璋は甘寧の部曲や呂蒙の駐屯地を引き継ぎ、陸口の守りについた。</ref>。
 
[[226年]]、孫権は江夏を攻めたが、潘璋も参加した。殿軍を潘璋に任せて撤退すると、夜間に撤退の途中で混乱が生じ、潘璋はこれを止められず、文聘はこれを見逃さず殿軍部隊を追撃し散々に打ち破った。朱然は、すぐさま取ってかえすと文聘を撤退させ、自軍の撤退が成功したのを見届けてから自身も悠々と退却した。
 
[[228年]]の石亭の戦いでは、周魴が偽降の調略のため魏の曹休に宛てた手紙の中で、潘璋が、陸遜と共に梅敷を討伐し、平定した。実際にこうした命令があったがどうかは不明である。