「三好長逸」の版間の差分

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この和議は翌年早くも破られ、三人衆は摂津・河内を拠点に石山本願寺と連携しつつ[[信長包囲網]]の一角を担った。しかし、本国阿波で[[三好長治]]が篠原長房を殺害し、家中の不和を招くなどの混乱もあり、積極策を取れないまま三好軍は徐々に衰えていく。元亀4年(7月28日に[[天正]]と改元、[[1573年]])、足利義昭自身が決起し、これに義継・久秀らが呼応してはじめて三好一族の足並みが反織田で一致した。だが同年の[[武田信玄]]の病死が反織田方にとって致命的な一撃となり、三好一族を含めた畿内の反織田勢力も一気に瓦解に突き進む。義昭は畿内から追放、三人衆の1人・岩成友通は[[淀古城|淀城]]で戦死、浅井長政・朝倉義景も織田軍に討たれた。
 
長逸については、摂津[[堀城|中嶋城]]にて信長が派遣してきた軍勢と戦い、敗北して城を逃れたのが確認できる最後の事跡である。残存する長逸本人の発給文書は[[元亀]]元年([[1570年]])が最後となる。一説にはこの合戦で討ち死にしたともされるが、その死を確認できる史料はなく、長逸と息子の生長のその後については隠居・幽閉説など各種の説が存在する。また、『賀茂別雷神社職中算用状』(同社の氏人が結成した惣の出納に関する[[算用状]])の天正5年9月分に「壱斗 三好日向守殿参、染山神鳥之代」とする記述があり、天正5年([[1577年]])に京都の[[賀茂別雷神社]]を訪問した三好日向守が長逸本人もしくはその後継者であった可能性がある<ref>金子拓「賀茂別雷神社職中算用状の基礎的考察」『織田信長権力論』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-02925-4 P114.</ref>。また、宗渭は行方不明となったとも、永禄12年(1569年)5月段階で死去(『二條宴乗記』)したとも言われ、義継は義昭を匿ったため織田軍に討ち取られ、反対に久秀は信長に降伏して生き延びた。長治は阿波の内乱で敗死、康長を始め他の三好一族は信長に臣従・討伐され、大名としての三好氏の勢力は消滅した<ref>{{Harvnb|今谷|pp=266-272}}、{{Harvnb|福島|pp=281-288}}</ref>。
 
== 家臣・一族 ==