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== オリブリオスとの関係 ==
先述のとおり、マクシムス帝は後に短期間、西ローマ皇帝となったオリブリオスとは親戚関係にあることは確実であるが、その続柄に関しては諸説ある。
 
第一に、実の親子関係にあるとの説。
 
第二に、マクシムス帝が従伯父で、オリブリオスが従甥という関係にあるとの説。具体的には、マクシムス帝の父と目されるフラウィウス・アニキウス・プロビヌスの兄弟アニキウス・ヘルモグニアヌス・オリュブリウス([[375年]]頃 - 没年不明)がオリブリオスの父方の祖父にあたるという。
 
== 先祖 ==
マクシムス帝の母マグナは[[グラティアヌス]]帝を殺害して帝位を簒奪した[[マグヌス・マクシムス]]の娘である。マグヌス・マクシムスは[[テオドシウス1世]]の又従兄とされており、[[テオドシウス朝]]の血脈に連なる人物となる。その外孫であるマクシムス帝も傍系・女系ながらテオドシウス朝の血筋に属することにもなる。一説にマグヌス・マクシムスの父はフラウィウス・エウケリウス([[310年]]生誕)、祖父はフラウィウス([[285年]]生誕)、曾祖父はフラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティウス・ダルダヌス([[255年]]生誕)、ダルダヌスは[[コンスタンティヌス1世]](大帝)の父[[コンスタンティウス・クロルス]]の弟(コンスタンティヌス大帝の叔父)。テオドシウス1世はマグヌス・マクシムスの祖父フラウィウスの兄弟の孫とされている為、テオドシウス朝は[[コンスタンティヌス朝]]の傍系血族ということになる。
 
また、父方の祖母と目されるアニキア・ファルトニア・プロバ([[355年]]頃 - [[413年]]頃)の高祖母の1人であるマエキア・プロバ([[270年]]頃生誕)は[[軍人皇帝]]の1人[[ゴルディアヌス3世]]の孫娘であり、3世の祖父[[ゴルディアヌス1世]]の玄孫、1世の息子で3世の伯父[[ゴルディアヌス2世]]の曽姪孫(妹の曾孫)にあたる。また、ゴルディアヌス3世の父ユニウス・リキニウス・バルブスを通して五賢帝の1人[[ハドリアヌス]]の親類[[ルキウス・アエリウス・カエサル]]([[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]の共同皇帝[[ルキウス・ウェルス]]の父)の血を引く。故にマクシムス帝はルキウス・アエリウス・カエサル、ゴルディアヌス1世、ゴルディアヌス3世の末裔となる。なお、オリブリオスの父とされるアニキウス・プロブスの母方の先祖の1人マエキア・ケルテギッラ([[265年]]頃生誕)はマエキア・プロバの姉にあたる。
 
== 子孫 ==
マクシムス帝には皇子パラディウス以外にアニキウス・プロブス([[435年]] - 没年不明)という子供がおり、プロブスはマリア([[440年]]生誕)という女性との間に娘マグナ([[460年]]生誕)を儲けた。娘マグナは460年頃の生まれの為、プロブスは父と兄が殺された455年のローマ劫掠の惨劇を経緯は不明だが生き残ったことになる。娘マグナは[[東ローマ帝国]]皇帝[[アナスタシウス1世]]の弟パウルス([[445年]] - [[496年]]以降に没)と結婚。プロブス([[480年]] - [[542年]]以降に没)、イレーネー([[485年]]生誕)兄妹の母となる。プロブスは[[ニカの乱]]の際に民衆によって皇帝に擁立されかけたが、直前に逃亡して怒った民衆によって自宅に放火されている。民衆はプロブスの父方の従兄弟ヒパティウス(ヒュパティウス)を擁立したが、乱は鎮圧され、ヒパティウスとその兄弟ポンペイウスは処刑された。
 
プロブスは名前不詳の同世代の女性との間にフラウィウス・アナスタシウス・パウルス・プロブス・サビニアヌス・ポンペイウス([[500年]] - [[517年]]以降に没)を儲けた。
サビニアヌス・ポンペイウスは東ローマ皇帝[[ユスティニアヌス1世]]の皇妃[[テオドラ]]がヘケボルスという男性との間に儲けた非嫡出子の娘テオドラ([[515年]]生誕)と結婚。アナスタシウス([[530年]] - [[571年]]以降に没)、ヨアンネス([[532年]]生誕)、アタナシウス([[535年]]生誕)の父となった。
 
プロブスの妹イレーネーはマクシムス帝が殺害したウァレンティニアヌス3世の曾孫にあたるアニキウス・オリブリウス・ミノール(マクシムス帝の親類で数代後の西ローマ皇帝オリブリウスの孫でもある)と結婚。一人娘プロバ([[510年]]生誕)がいる。娘プロバは西ローマ皇帝オリブリウスの弟アニキウス・オリブリウスの息子アニキウス・プロブス([[495年]] - [[525年]]以降に没)と結婚。娘ユリアナ([[533年]]生誕)を儲けた。イレーネーの夫の弟アレオビンドゥスはゲオルギアという女性との間に息子プロブス([[510年]] - [[542年]]を儲け、プロブスは妻アウィエナ([[520年]]生誕、西ローマ帝国最後の皇帝[[ロムルス・アウグストゥルス]]の孫娘、バルバラ([[495年]]生誕)とルフィウス・マグヌス・ファウストゥス・アウィエヌス([[485年]]生誕)の娘)と結婚。、プロバ([[540年]]生誕)を儲けた。プロバはRogasという男性との間に娘ファビア([[580年]] - [[612年]])を儲けた。後にファビアは[[ヘラクレイオス1世]]の最初の皇妃となり、1男1女を儲ける。なお、ルフィウスの系譜を遡ると、祖先には皇帝[[マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス|プピエヌス]]、五賢帝の1人[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]に対して反乱を起こして敗死した[[ガイウス・アウィディウス・カッシウス]]、[[小ユリア]]、小ユリアの両親である[[マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ]]と[[大ユリア]]、大ユリアの父で[[ローマ帝国]]初代皇帝[[アウグストゥス]]、[[コンマゲネ]]王家、[[セレウコス朝]]、[[プトレマイオス朝]]、[[リュシマコス]]、[[アレクサンドロス3世]](大王)などに辿り着く。
 
サビニアヌス・ポンペイウスの長男でプロブスの孫アナスタシウスと、イレーネーの孫娘ユリアナが結婚している。なお、アナスタシウスは最初、ユスティニアヌス1世配下の将軍[[ベリサリウス]]とその妻アントニナの一人娘ヨアンニナと結婚していたが、アントニナによって離婚させられている。よって、アナスタシウスにとっては再婚である。アナスタシウスとユリアナにはアレオビンドゥス([[550年]]生誕)、プラキディア([[552年]]生誕)、プロバ(生没年不詳)の2男1女がいる。
 
プロバはゲオルギウスという男性と結婚したが子女は確認できない。
 
アレオビンドゥスには娘アナスタシア・アレオビンダ([[570年]]生誕)がおり、皇帝[[マウリキウス]]の弟ペトルス([[545年]] - [[602年]])の妻となり、一女フラウィア・ユリアナ([[590年]]生誕)を儲けた。[[フラウィア・ユリアナ]]は[[西ゴート王国]]の[[キリスト教]]の宗派の違い([[カトリック]]と[[アリウス派]])に端を発した内乱([[ヘルメネギルド]]の乱)の際に東ローマ帝国の首都[[コンスタンティノープル]]に拉致、養育されていた西ゴート王子で合法的な西ゴート王国王位継承者アタナギルド(ヘルメネギルドの息子で内乱時の西ゴート王[[レオヴィギルド]]直系の孫)と結婚。息子アルダバストを儲けている。アルダバストは後に理由は不明であるが東ローマ帝国から追放処分を受け、西ゴート王国に亡命している。アルダバストの妻は西ゴート王[[キンダスウィント]]の姪ゴダであり、その間に息子エルウィグが誕生した。エルウィグは西ゴート宮廷で育てられ、次第に傲慢になって西ゴート王への野心を露わにしていき、数多くの陰謀を巡らす様になる。遂に[[680年]]、時の西ゴート王ワムバ(キンダスウィントの次の次の王)を毒を持って瀕死に追い込み(一命は取り留めた)、王位簒奪に成功、7年間西ゴート王国を統治した。エルウィグの血筋は少なくとも玄孫の代まで存続している。
 
プロバとアレオビンドゥスの姉妹プラキディアはアルサケス王家の血筋とされるヨアンネス・ミュスタコン(545年 - [[591年]])と結婚。エウフェミア([[575年]]生誕)、ウァレンティヌス([[580年]] - [[644年]]/[[645年]])、マヌエル([[585年]] - [[634年]]以降に没)の3人を儲けている。
 
マヌエルは一女([[620年]]生誕)を儲け、その子孫が後世に存続している。
 
エウフェミアはグレゴリウス(ユスティニアヌス1世の妹ウィギランティアの曾孫(ウィギランティア([[495年]]生誕、夫はドゥルギディウス)ープラエイエクタ([[522年]] - [[550年]]以降に没)ーウィギランティア([[540年]]生誕、父の名はアレオビンドゥス([[510年]] - [[546年]]))ーグレゴリウス))と結婚。息子ニケタス(590年 - [[629年]])を儲けた。ニケタスは従姉妹グレゴリア([[585年]]生誕、西ゴート王国ニケタスの父方のおばエピファニア([[560年]]生誕)とヘラクレイオス(大ヘラクレイオス、550年 - [[610年]]の娘、後の東ローマ皇帝[[ヘラクレイオス1世]]の妹)と結婚(いとこ婚)し、グレゴリア([[612年]] - [[650年]]以降に没。[[コンスタンティノス3世]]の皇妃、[[コンスタンス2世]]の母)、ニケタス(パトリキオス。[[615年]] - [[630年]]以降に没)、グレゴリウス([[647年]]に戦死)の2男1女を儲けた。
 
コンスタンス2世は母方の曾祖母エウフェミアの弟ウァレンティヌスの娘ファウスタ([[625年]]/[[630年]] - [[681年]]以降に没)と[[642年]]に結婚した。東ローマ皇帝の舅という地位を手に入れたウァレンティヌスは共同皇帝になろうとしたが、周囲の反対で失敗した。ウァレンティヌスは644年もしくは645年に娘婿でもあるコンスタンス2世から皇位を奪おうとしたが再び支持を得られずに失敗、失脚した。テオファネス([[758年]]/[[760年]] - [[817年]]/[[818年]])が記した年代記によれば、この二度目の試みがウァレンティヌスの命を奪った。
 
コンスタンス2世はファウスタとの間に男子3人([[コンスタンティノス4世]]、ヘラクレイオス、ティベリオス)を儲けた。この3人の肖像は[[ラヴェンナ]]にある[[サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂]]のコンスタンティノス4世のモザイク画に描かれている(中央のコンスタンティノス4世の向かって左側にヘラクレイオスとティベリオスがいる)。[[681年]]、コンスタンティノス4世は弟2人の共同皇帝という地位を剥奪し鼻を削いだ。
 
コンスタンティノス4世には皇妃アナスタシア([[650年]] - [[711年]]以降に没)との間に[[ユスティニアノス2世]]、ヘラクレイオスという2人の息子がいる。この内、ユスティニアノス2世は上述のは[[ラヴェンナ]]にある[[サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂]]のコンスタンティノス4世のモザイク画に描かれている(コンスタンティノス4世の弟2人の向かって左側(モザイク画の一番左端)に描かれている人物)。ヘラクレイオスは[[667年]]から[[685年]]の間(670年頃か)に生まれたが、父の死後の記録は無い。ユスティニアノス2世は最初の皇妃エウドキア([[695年]]以前に没)との間に一女アナスタシア([[685年]]生誕)を、2番目の皇妃テオドラ([[690年]] - 711年以降に没)との間に男子で共同皇帝ティベリオス([[705年]] - 711年)を儲けた。なお、テオドラはユスティニアノス2世の曾祖父コンスタンティノス3世の同母姉エウドキア・エピファニアの玄孫である。ユスティニアノス2世は暴政を行い、711年の反乱で殺された。ティベリオスもコンスタンティノープルで祖母アナスタシアの必死の助命嘆願にも関わらず、処刑された。ユスティニアノス・ティベリオス父子の死により、[[ヘラクレイオス王朝]]による東ローマ帝国支配は終わりを告げた。一方、ユスティニアノス2世の皇女でティベリオスの異母姉アナスタシアはブルガリア王テルヴェル([[675年]] - [[721年]])との間に息子テレリグ([[706年]] - [[777年]]、後にブルガリア王)を儲けている。
 
なお、コンスタンティノス4世の皇妃アナスタシアの父はヨアンネス・アタラリック([[600年]] - [[637年]]以降に没)という人物でコンスタンティノス4世の曾祖父ヘラクレイオス1世の庶子である。ヨアンネス・アタラリックの母はユスティニアヌス1世の従弟ゲルマヌスの子ゲルマヌス(550年 - [[605年]])の次女(585年生誕。名前不詳)でヘラクレイオス1世の側室となった女性である。ゲルマヌスの妻はレオンティアという女性である。
 
なお、ユスティニアヌス1世の従弟ゲルマヌスの母は西ローマ皇帝オリブリウスの孫娘(アニキア・ユリアナの娘)の可能性が指摘されている。ヨアンネス・アタラリックの祖父ゲルマヌスの母は[[東ゴート王国]]初代国王[[テオドリック]]大王の孫娘マタスンタ(517年/[[518年]] -551年以降に没)であり、マクシムス帝の血筋は東ゴート王国の王家であるアマル家とも遠い縁戚関係がある。
 
== 脚注==