「口分田」の版間の差分

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'''口分田'''('''くぶんでん''')とは、[[律令制]]において、民衆へ一律に支給された農地である。[[日本北魏]]([[中国]]の律令では男性へ2段(720歩の[[均田制]]における露田、女性へは口分田の前身であると考えられている。その3後、[[唐 (王朝)|唐]]律令に口2(480歩)規定支給さ置かた。[[日本]]ではその収穫から[[飛鳥時代]]に令(又は律令)を制定する際、唐の制度を参考として徴税たため、唐と同様に口分田行わ導入されたと考えられる
 
== 律令で中国規定口分田 ==
=== 前史(北魏~隋の露田) ===
均田制は北魏で始まった。均田制は、民衆へ一律に田地を支給する代わりに、[[納税]]と[[軍役]]を義務づけることを目的としていた。
 
北魏では、15歳以上の男子に露田40畝を、女子には同じく20畝を支給することとされており、この露田が後代の口分田・世業田の始源だったと考えられる。興味深いことに、人間だけでなく牛も30畝の田地支給を受けていた(ただし4頭まで)。
 
[[隋]]も均田制を採用した。隋の均田制では、男子に露田80畝(女子は40畝)と世業田20畝を支給することとされていた(牛への支給は廃止されている)。露田は時期が来たら収公されたが、世業田は子孫代々所有することが許された。
 
=== 唐の口分田 ===
[[624年]]、唐は前代隋の律令を参考として新たに律令を制定した。その中の田令において口分田が規定されている。唐田令では、成年男子(丁男)に100畝(1項=約5ヘクタール)を支給し、うち80畝(約4ヘクタール)を口分田として残りの20畝(約1ヘクタール)を世業田(のち[[永業田]]に改称)とした。この唐の制度の特徴としては、対象が成年男子に限定された点にある。
 
子孫代々相続可能な永業田に対して、口分田は60歳になると収公すると規定されていた。果たして長年耕作してきた田地を円滑に収公できたか、について多くの学者から疑義が出されており、実際には代々耕作してきた田地の一部を口分田、残りを永業田と称して建前を保ったのではないかとも考えられている。いずれにせよ、唐政府にとって、田地の収授徹底よりも、均田制により課税対象を漏れなく把握することの方が重要だったとする説が有力である。
 
=== 口分田の消滅 ===
唐末期([[8世紀]]末)には、大土地所有が拡大していき、呼応するように徐々に均田制が崩壊していった。この流れの中で口分田も消滅していったと考えられる。
 
== 日本の口分田 ==
日本の律令では、口分田として男性へ2段(720歩=約24アール)、女性へはその3分の2(480歩=約16アール)が支給され、その収穫から徴税([[租]])が行われるとされていた。
 
=== 律令での規定 ===
現存する養老律令田令では、口分田について次のとおり規定されている。
* 第3条 口分田について、男は2段とし、女は3分の1を減ずる。5歳以下には支給しない。その地が広い場合又は狭い場合は、地域の慣習法に従う。易田は倍給する。支給が済んだ後は、境界(四至)を明確にすること。
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* 第27条 政府所有の奴隷(官戸奴婢)の口分田は一般人(良人)に同じとする。私有奴隷(家人奴婢)の口分田は、地域の寛狭に応じ、並びに一般人の3分の1を支給する。
 
=== 制度導入~衰退由来経緯 ===
口分田の祖型は、[[7世紀]]中葉の[[大化の改新]]頃に始まり、7世紀終盤の律令形成期に口分田制度が確立したと考えられている。記録上は、[[8世紀]]=[[奈良時代]]を通じて順調に農地の支給(班田)が行われているが、[[800年]]の記録を最後に班田は行われなくなった。これに伴い、口分田制度も急速に衰退したのではないかと見られる。このことは、口分田制度によらずとも一定の税収確保が可能となったことを示唆している。
元々は、中国[[南北朝時代 (中国) |南北朝時代]]に始まった[[均田制]]が口分田制度の由来である。均[[田制]]は、民衆へ一律に農地を支給する代わりに、[[納税]]と[[軍役]]を義務づけることを目的としていたと言われる。日本の[[律令]]が参考とした[[唐 (王朝)|唐]][[律令]]にも[[均田制]]が採用されていたため、日本でも同様に口分田が導入されたものと考えられている。
 
== 日本と唐の差異 ==
日本の律令は唐律令を焼き直したものであり、口分田の制も唐田令の規定から採用しているが、いくつかの点で日本の実情に合わせた変更が行われている。日本と唐の差異は次のとおりである。
* 支給対象:日本は男女、唐は男子のみ
* 支給年齢:日本は6歳以上(死ぬまで)、唐は成年のみ(59歳まで)
* 支給面積:日本は約16~24アール、唐は約5ヘクタール
* 永業田:日本には永業田の規定がない
 
以上概観すると日本の方が支給対象の範囲が広いが支給面積は狭い。人口・農地が少ないという当時の日本の実情に沿ったものであろう。なお、奈良時代の日本の人口は約500万人、農地は100万町(約120万ヘクタール、21世紀初頭が約480万ヘクタール)だったと推計されている。
== 経緯 ==
口分田の祖型は、[[7世紀]]中葉の[[大化の改新]]頃に始まり、7世紀終盤の律令形成期に口分田制度が確立したと考えられている。記録上は、[[8世紀]]=[[奈良時代]]を通じて順調に農地の支給(班田)が行われているが、800年の記録を最後に班田は行われなくなった。これに伴い、口分田制度も急速に衰退したのではないかと見られる。このことは、口分田制度によらずとも一定の税収確保が可能となったことを示唆している。
 
== 地名・苗字として口分田 ==
[[滋賀県]][[長浜市]]には、口分田(くもで)という地名が残存する。この地発祥と思われる口分田姓もあり、滋賀県[[野鳥の会]]名誉会長に口分田政博氏がいる。また、[[本所の吉良屋敷|赤穂浪士事件]]の関係者にも口分田姓の者がいた。
 
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[[Category:日本史|くぶんでん]]
[[Category:中国の歴史|くぶんでん]]