「ベトナム」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
できるだけベトナムという単語を省略した。
75行目:
 
== 概要 ==
中国南東岸に住む諸族である[[百越]]のうち[[駱越]]が南下してベトナムに入り、[[漢]]・[[唐]]の時代には中国の支配を受けたが、[[10世紀]]に独立<ref name="mypedia"/>。[[丁朝]]、[[李朝 (ベトナム)|李朝]]、[[陳朝]]、[[黎朝]]、[[阮朝]]などの王朝支配を経て、[[19世紀]]後半に[[フランス]][[フランス領インドシナ|植民地]]に編入された<ref name="mypedia"/>。[[第二次世界大戦]]中の[[日本軍]]の進駐と戦後の[[第一次インドシナ戦争]]を経てフランス植民地体制が崩壊し、国土は[[共産主義]]陣営の[[ベトナム民主共和国]](北ベトナム)と[[資本主義]]陣営の[[ベトナム共和国]](南ベトナム)に分裂。[[ベトナム戦争]](第二次インドシナ戦争)を経て南ベトナムの政権が崩壊し、[[1976年]]に統一国家としてベトナム社会主義共和国が成立した<ref name="britanica">[https://kotobank.jp/word/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0-129736 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ベトナム]</ref>。
 
政治体制は[[ベトナム共産党]]による[[一党独裁]]体制である<ref>[https://www.jiji.com/jc/article?k=2020042500313&g=int 時事通信2020年04月25日14時29分 一党支配、厳格な対策奏功 コロナ収束向かい制限緩和―ベトナム]</ref><ref>[https://mainichi.jp/articles/20210125/ddm/007/030/105000c 毎日新聞2021年1月25日 ベトナム共産党 異例3期目、書記長続投か 党大会きょう開幕]</ref>。[[エコノミスト]]誌傘下の研究所[[エコノミスト・インテリジェンス・ユニット]]による[[民主主義指数]]は、世界136位と後順位で「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)<ref> [https://www.eiu.com/topic/democracy-index EIU Democracy Index - World Democracy Report]</ref>。また[[国境なき記者団]]による[[世界報道自由度ランキング]]も下から6番目の175位と後順位であり、最も深刻な状況にある国の一つに分類されている(2020年度)<ref>[https://rsf.org/en/ranking/ 国境なき記者団公式ホームページ]</ref>。
85行目:
外交面では1977年に[[国際連合|国連]]に加盟し、[[1991年]]に中越戦争で交戦した[[中華人民共和国]]と、[[1995年]]にはベトナム戦争で交戦した[[アメリカ合衆国]]と国交を回復し、[[東南アジア諸国連合|ASEAN]]にも加盟した<ref name="mypedia"/>。近年は[[南沙諸島]]など[[南シナ海]]への実効支配を強める中国との対立が深まっており<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58248150Q0A420C2EAF000 日本経済新聞 中国、南シナ海に新行政区を設置 ベトナムは反発]</ref>、[[2010年代]]以降は[[アメリカ軍]]やASEANと合同軍事演習を行うなど中国けん制の姿勢を強めている<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM14028_U1A610C1FF1000 日本経済新聞 米とベトナム、南シナ海で7月に合同軍事演習 中国をけん制]</ref><ref>[https://www.viet-jo.com/news/politics/190824114947.html VIETJO ベトナム、米・ASEANの合同軍事演習に参加―南シナ海に進出する中国をけん制]</ref>。
 
軍事面では18歳から25歳の男性を対象に兵役期間2年の[[徴兵制]]を敷いており<ref>[https://www.viet-jo.com/news/law/160303012022.html VIETJO 改正兵役法でベトナムの兵役はどう変わったか]</ref>、[[ベトナム人民軍]]は50万弱の兵力を有する<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/vietnam/data.html#section3 外務省 ベトナム基礎データ]</ref>。ベトナムの軍事力は軍事ウェブサイトの[https://www.globalfirepower.com/ グローバル・ファイアパワー (GFP)]が発表する「2020 Military Strength Ranking」によれば世界22位で、東南アジアでは第2位である<ref>[https://www.viet-jo.com/news/politics/201231122949.html VIETJO ベトナムの軍事力は世界22位に上昇、東南アジア2位]</ref>。
 
人口は9762万人(2020年ベトナム統計総局)。住民は[[キン族]](ベトナム人)が約86%を占め、他に[[ミャオ族]]、[[チャム族]]など53の少数民族が存在し、中国人も暮らしている<ref name="mypedia"/><ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/vietnam/data.html 外務省 ベトナム基礎データ]</ref>。
91行目:
宗教は[[仏教徒]]が多いが、[[カオダイ教]]や[[ホアハオ教]]、フランス植民地時代からの[[カトリック]]も存在する<ref name="mypedia"/>。憲法上は[[信教の自由]]を認めているが、実際には政府による強力な規制・監督が敷かれており、アメリカから信教の自由の改善を要請されている<ref>[http://www.moj.go.jp/isa/content/930003645.pdf 法務省入国管理局 ベトナム2016年国際宗教自由報告書]</ref>。
 
公用語は[[ベトナム語]]で住民の大半が使用しているが、一部に少数民族の言語も存在する<ref name="mypedia"/>。ベトナム語の表記方法としては古くは[[漢字]]が用いられ、[[13世紀]]からは[[チュノム]]という漢字を基に作られた独自の民族文字が使用されるようになったが、フランス統治時代以降は[[チュ・クオック・グー]]と呼ばれる[[ローマ字]]表記が用いられており、現在は漢字とチュノムは廃れている<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E8%AA%9E-129740#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ) ベトナム語]</ref>。
 
地理としては[[インドシナ半島]]の東半部、[[トンキン湾]]、南シナ海に沿うS字形の南北に細長い国土である。北部は[[ソンコイ川]]の形成する
99行目:
正式名称は[[ベトナム語]]で "{{lang|vi|''Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam''}}" <small>({{Audio|Công hoà xa hoi chu nghia Viêt Nam.oga|聞く|help=no}})</small>。略称は "{{lang|vi|''Việt Nam''}}" ({{IPA-vi|viət˨ næm˧|-|Vietnam.ogg}})である。ベトナム語の[[漢字]]([[チュハン]])では「'''共和社會主義越南'''」「'''越南'''」となる。
 
[[1802年]]に現代とほぼ変わらない領土でベトナムを統一した人物は、[[阮朝]]の創始者の[[阮福暎]](嘉隆帝)である。[[1804年]]には[[清]]の[[嘉慶帝]]から'''越南国王'''に[[冊封|封ぜられ]]、「越南」を正式の[[国号]]とした、阮朝は最初清に「'''[[南越国|南越]]'''」の号を求めたが、嘉慶帝は「'''越南'''」という国号を与えた。「南越」という国号に阮朝の領土的野心を警戒したという見方もある。
 
[[ロシア語]]で「Вьетнам」と書き、[[ロシア語のラテン文字表記法|ラテン文字表記法]]の学術表記で「V'etnam」になる。それを通して、Vがよく[[バ行]]で表すが、iは見えられないで[[日本語]]表記が「'''ベトナム'''」となる。ベトナム語による「Việt」の正しい発音は「ベト」ではなく「ヴィエッ」から、一部文献等では「'''ヴィエトナム'''」「'''ヴィエットナム'''」等の表記もみられる。漢字による表記では「'''越南'''」(えつなん)と書くこともあり、'''越'''(えつ)と略す。現在の[[日本国]]の[[外務省]]では「'''ベトナム'''」「'''ベトナム社会主義共和国'''」の表記を用いるが、かつてはベトナム語の発音に近い「ヴィェトナム社会主義共和国」の表記となっていた。
124行目:
{{main|北属期}}
 
* 北部 - [[紀元前111年]]の[[漢の南越国征服]]で漢の[[武帝 (漢)|武帝]]が遠征して南越国が滅亡。[[第一次北属期]]([[:en:First Chinese domination of Vietnam|en]]、[[紀元前111年]] - [[39年]])に入り、[[交州]]([[交趾郡]]、[[日南郡]]等9郡)と呼ばれた。40年[[徴姉妹|チュン姉妹]]が蜂起した[[ハイ・バ・チュンの反乱|チュン姉妹の反乱]]が起こるが、[[後漢]]に制圧され[[第二次北属期]]([[:en:Second Chinese domination of Vietnam|en]]、[[43年]] - [[544年]])が始まる。6世紀の終わり頃に[[隋]](581年-618年)が中国を統一し、ベトナムに[[交州|交州総督府]]を設けた。[[544年]]に[[李賁]]が[[前李朝]]を興して独立。[[602年]]、{{仮リンク|隋李戦争|en|Sui–Lý War}}で隋が前李朝に侵攻し、[[第三次北属期]]([[:en:Third Chinese domination of Vietnam|en]]、[[602年]] - [[938年]])に入る。次代の唐 (618-907) に引き継がれ[[安南都護府]]となる(安南という呼称の始まり)。[[755年]]に[[唐]]で[[安史の乱]]が起こると支配は動揺し始め、[[南詔]]が[[ハノイ]]の安南都護府を占領した([[862年]] - [[866年]])。
* 中部 - [[192年]]、[[オーストロネシア語族]]系統の古チャム人(後の[[チャム族]])が日南郡で、[[インド]]化された[[チャンパ王国]]を形成して後漢から独立。[[734年]]に[[平群広成]]らの乗る[[日本]]の[[遣唐使]]船第3船が暴風雨で難破し、崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕縛された。後に脱出して[[長安]]に戻り、[[渤海 (国)|渤海]]経由で日本に帰国した。
* 南部 - [[扶南国]]([[1世紀]] - [[6世紀]])、[[真臘]](6世紀 - [[8世紀]])。
133行目:
* 南部 - [[クメール王朝]]
 
=== モンゴルのベトナム侵攻 ===
[[モンゴル帝国]]に連なる[[元 (王朝)|元]]が中国を支配した[[13世紀]]に、皇帝の[[クビライ]]は3度にわたる{{仮リンク|モンゴルのベトナム侵攻|en|Mongol invasions of Vietnam|label=ベトナム侵攻}}(元越戦争)を行った。[[1258年]]、{{仮リンク|元越戦争 (1258年)|vi|Chiến tranh Nguyên Mông-Đại Việt lần 1|label=第1次元越戦争}}。[[1283年]]、{{仮リンク|元越戦争 (1283年)|vi|Chiến tranh Nguyên Mông-Đại Việt lần 2|label=第2次元越戦争}}。[[1287年]]、{{仮リンク|元越戦争 (1287年 - 1288年)|vi|Chiến tranh Nguyên Mông-Đại Việt lần 3|label=第3次元越戦争}}。[[1288年]]の[[白藤江の戦い (1288年)|白藤江の戦い]]で敗北した元の侵攻軍は敗走した。
 
160行目:
[[1847年]][[4月15日]]、フランス軍艦が[[ダナン]]を[[艦砲射撃]]し、[[フランス]]の侵略が始まる({{仮リンク|ダナンの戦い|en|Bombardment of Tourane}})。[[1858年]]9月、フランス・[[スペイン]]連合艦隊がダナンに侵攻({{仮リンク|コーチシナ戦争|en|Cochinchina Campaign}}、[[1858年]]-[[1862年]])。[[1862年]]6月、第1次[[サイゴン条約]]でフランスに南部3省を割譲。[[1867年]]6月、フランス領[[コーチシナ]]が成立。[[1874年]]3月、[[第2次サイゴン条約]]でフランスに[[紅河]]通商権を割譲。[[1882年]]4月、フランスがハノイを占領した。
 
[[1883年]]6月、{{仮リンク|トンキン戦争|en|Tonkin Campaign}}(1883年6月 - [[1886年]]4月)が勃発。8月、{{仮リンク|フエ条約 (1883年)|en|Treaty of Huế (1883)|label=癸未条約}}(第1次フエ条約、アルマン条約)で[[安南|アンナン]]と[[トンキン]]がフランスの保護領となる。[[1884年]]5月、{{仮リンク|天津停戦協定|en|Tientsin Accord}}(李・フルニエ協定)を締結。6月、{{仮リンク|フエ条約 (1884年)|en|Treaty of Huế (1884)|label=甲申条約}}(第2次フエ条約、パトノートル条約)でベトナムは清への服従関係を絶つ。
 
[[1884年]]8月、[[清仏戦争]]([[1884年]]8月 - [[1885年]]4月)が勃発。[[1885年]]6月、[[天津条約 (1885年6月)|天津条約]]で、清はベトナムに対する宗主権を放棄すると共に、癸未条約と甲申条約で定めたフランスのアンナンとトンキンへの保護権限を承認した。[[1887年]]10月、[[フランス領インドシナ]]連邦(トンキン保護領、アンナン保護領、コーチシナ直轄[[植民地]]に分割統治、カンボジア保護国と併合、1889年4月にはラオス保護国を併合)が成立し、フランスにより植民地化された。日本では「仏印」と呼ばれた。
 
=== 反仏独立運動 ===
194行目:
ベトナム戦争時、カンボジアの共産主義勢力[[クメール・ルージュ]]は北ベトナムや南ベトナム解放戦線と協力関係にあったが、1975年に[[カンボジア内戦]]に勝利して[[民主カンプチア]]を建国した後はベトナムとの対立を深めた。民主カンプチアによる多くの国境侵犯や[[バチュク村の虐殺]]などにより、[[1978年]]12月に[[カンボジア・ベトナム戦争]](第三次インドシナ戦争、1978年 - [[1989年]])でカンボジアへの侵攻を開始。[[1979年]]、侵攻を非難する[[中華人民共和国]]がベトナムを攻撃し、[[中越戦争]]が開始される。世界各国は援助を停止したためベトナムは孤立するが、戦争期に中ソから支援され、またアメリカや南ベトナムから[[鹵獲]]・接収した多種多様な近代兵器と実戦経験豊富な古参兵を擁するベトナムは、[[文化大革命]]で混乱・疲弊した[[中国人民解放軍]]を相手に善戦し、[[国際連合安全保障理事会常任理事国|国連五大国]]の一角である中国を一度は退けた。
 
[[1986年]]7月、[[レ・ズアン]]が死去。12月、第6回全国代表者大会以降、[[チュオン・チン]]国家評議会議長体制は、社会主義型市場経済を目指す「[[ドイモイ]](刷新)政策」を開始し、改革・開放路線に踏み出す。[[1988年]][[3月14日]]、[[ジョンソン南礁]]が中華人民共和国に占領される([[スプラトリー諸島海戦]])。カンボジア・ベトナム戦争で勝利して[[ヘン・サムリン]]率いる親ベトナム政権を成立させた代償にソ連圏を除く国際社会から孤立し、国内経済が疲弊していたベトナムはおり、[[1989年]]9月、カンボジアから完全撤兵し、カンボジア・ベトナム戦争が終結。カンボジアからの撤退を命じた[[グエン・ヴァン・リン]]らが[[1990年]]に秘密裡に訪中し、[[1991年]]に中国を訪れた[[ヴォー・チ・コン]]国家評議会議長が[[江沢民]]総書記と会談、越中関係を正常化させた。
 
==== 関係改善期 ====
[[1991年]][[6月27日]]、[[ドー・ムオイ]]が共産党書記長(最高指導者)に就任。[[1993年]]2月、ベトナムとフランス[[和解]](当時の[[フランス共和国大統領]]は[[フランソワ・ミッテラン]])。[[1995年]]7月、[[ビル・クリントン|クリントン]]・[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]]が、ベトナムの[[国家の承認]]と外交関係樹立を発表。1995年[[8月5日]]、ベトナムとアメリカ和解した。
 
7月、[[東南アジア諸国連合]](ASEAN)がベトナムの加盟を認め、周辺諸国との関係も改善した。10月、[[所有権]]や[[契約]]の考え方を盛り込んだ、初めての[[民法]]ができる。[[1996年]]1月、[[自由貿易協定|ASEAN自由貿易地域(AFTA)]] に参加。[[1997年]][[12月29日]]、[[レ・カ・フュー]]が共産党書記長に就任。[[1998年]]、[[アジア太平洋経済協力]](APEC)参加。[[2003年]][[7月5日]] [[フォンニャ-ケバン国立公園|フォンニャーケーバン国立公園]]が[[ユネスコ]][[世界遺産]]に登録された。
 
[[2001年]][[4月22日]]、[[ノン・ドゥック・マイン]]が共産党書記長に就任。[[2003年]]、[[日越投資協定]]締結。[[2006年]]初頭、[[:en:Bui Tien Dung|Bui Tien Dung]]が拘留される。[[6月27日]]、[[チャン・ドゥック・ルオン]]国家主席の引退に伴い、新国家主席にベトナム共産党の[[グエン・ミン・チェット]]政治局員(ホーチミン市党委員会書記)をベトナムの国会は選出した。また、引退する[[ファン・ヴァン・カイ]]首相の後任に[[グエン・タン・ズン]]党政治局員を国会は選出した。[[6月28日]]、新首相の提案に基づき8閣僚の交代人事を国会は承認した。{{仮リンク|ダオ・ディン・ビン|vi|Đào Đình Bình}}交通運輸大臣は同省傘下の汚職事件([[:en:PMU 18 scandal|PMU 18 scandal]])で指導責任を問われ、事実上更迭された。
 
[[2007年]][[1月11日]]、[[世界貿易機関]](WTO)に正式加盟した(150番目の加盟国)。2007年[[10月16日]]、[[国際連盟|国連総会]]で[[国際連合安全保障理事会|安全保障理事会]]の非常任理事国に初選出された。
208行目:
[[ファイル:Two Flags Vietnam.JPG|thumb|320px|[[ベトナム共産党]]の党旗(左)と[[ベトナムの国旗|ベトナム社会主義共和国の国旗]](右)]]
=== 統治体制 ===
[[政体]]は[[社会主義]][[共和制]]。ベトナムの[[統治機構|統治体制]]は、[[ベトナム共産党]]による[[一党独裁制]]である。ベトナム共産党の最高職である[[ベトナム共産党#歴代共産党書記長|党中央委員会書記長]](最高指導者)、国家[[元首]]である[[ベトナム社会主義共和国主席|国家主席]]、[[政府の長]]である[[ベトナムの首相|首相]]、[[立法府]]である[[国会 (ベトナム)|国会]]の議長を国家の「'''四柱'''」と呼んでいる<ref>[http://www.presscenter.org.vn/%E6%96%B0%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E4%B8%BB%E5%B8%AD%E3%82%92%E9%81%B8%E5%87%BA_t221c1685n62778tn.aspx 新国家主席を選出 - FOREIGN PRESS CENTER](ベトナム外務省プレスセンター)2016年4月5日</ref>。ベトナムでは原則として、党と国家のトップを同じ人物が兼務することはなく、「四柱」を中心とした集団指導体制をとってきた。しかし、2018年10月には病死した[[チャン・ダイ・クアン]]国家主席の後任として[[グエン・フー・チョン]]共産党書記長が国家主席を兼任し、この原則が崩れている<ref>{{Cite news|url=http://www.afpbb.com/articles/-/3194395|title=ベトナム書記長、国家主席を兼務=国会が選出-権力基盤を強化|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2018-10-23|accessdate=2018-10-24}}</ref>。首相は[[グエン・スアン・フック]]、国会議長は[[グエン・ティ・キム・ガン]]が務める<ref>{{Cite web |url=http://www.viet-jo.com/news/politics/160331060221.html |title= ベトナム初の女性国会議長が選出、ガン国会副議長|publisher=VIETJO|accessdate=2016-04-10}}</ref>。
{{See also|ベトナム社会主義共和国主席|ベトナムの首相}}
 
225行目:
[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]によると言論、精神、出版、団結、宗教といった基本的人権が制限されている。人権活動家や[[ブログ|ブロガー]]は、嫌がらせ、脅迫、暴力、投獄に直面している<ref>{{Cite news|title=Vietnam|url=https://www.hrw.org/asia/vietnam|accessdate=2018-11-05|language=en|work=Human Rights Watch}}</ref>。
 
アムネスティ・インターナショナルはFacebook、Googleがベトナムでサービスを提供しているが政府の検閲に協力しているとしている<ref>{{Cite web|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO66846450R01C20A2000000|title=[FT]人権団体「FBとグーグルがベトナムの検閲に加担」|accessdate=2020年12月26日|publisher=日経新聞}}</ref>。
 
===籍===
242行目:
=== 中国との関係 ===
{{main|[[中越関係]]}}
ベトナムは共産党の一党社会主義体制を採用しており、[[社会主義市場経済]]や[[ネット検閲]]など中国と類似する政策を行なっているために「ミニ中国」の異名がある<ref>[https://yaziup.com/business/world/59029 ベトナムは「ミニ中国」!?将来性のあるベトナム経済とは?] YAZIUP(ヤジアップ)2018年11月19日</ref>。
 
ベトナムは中国の王朝から侵略や支配を受け938年にその支配を脱した。
 
[[第一次インドシナ戦争]]や[[ベトナム戦争]]では、[[ベトナム民主共和国]]は[[中華人民共和国]]から支援を受け、[[グエン・ソン]]のような[[中国共産党]]党員はベトナム人民軍初の[[士官学校]]をつくった。しかし、北ベトナムに対して北爆再開など大規模な軍事攻撃を行った[[リチャード・ニクソン]]大統領の[[ニクソン大統領の中国訪問|中国への電撃訪問]]から中国は[[アメリカ合衆国]]に接近し、[[パリ協定 (ベトナム和平)|パリ協定]]での[[アメリカ軍]]撤退に乗じて[[西沙諸島の戦い]]で中国が[[南シナ海]]への進出を果たすなどベトナムとのしたため、摩擦が起き始めた。中国に友好的だったホーチミンの死後になされた南北ベトナム統一後、ソ連寄りとなったベトナムによるカンボジアへの侵攻([[カンボジア・ベトナム戦争]])を巡っては1979年に中国との大規模な戦争を起こし([[中越戦争]])、中国は米国とともに[[民主カンプチア連合政府]]や[[フルロ]]などベトナムに対する抵抗活動を支援し、[[1989年]]に[[グエン・ヴァン・リン]]らがベトナム人民軍にカンボジアからの撤退を命じて中国と国交正常化交渉を開始するまで度々交戦([[中越国境紛争]])をしている状態であった。
 
[[ファイル:Vietnam claims Paracel and Spratly islands.JPG|thumb|250px|「[[西沙諸島|ホアンサ諸島]]・[[南沙諸島|チュオンサ諸島]]はベトナムのもの」({{lang|vi|Hoàng Sa, Trường Sa là của Việt Nam}})と主張するキャンペーン。<br/>([[2013年]]、[[ホーチミン市]][[統一会堂]]にて)]]中華人民共和国とは陸続きのため、最大の貿易相手国であり、中国製品も多く流通しているが過去の侵略された歴史を含めて、[[反中]]感情を抱く者は非常に多い。
256行目:
 
=== 北朝鮮との関係 ===
[[朝鮮民主主義人民共和国]]とは、[[共産主義]]国家同士の関係で、ハノイ、[[平壌]]双方の首都に[[大使館]]が設置されており、[[大韓民国]]よりも早く国交を結んでいる。ベトナム戦争時には、朝鮮人民軍部隊が北ベトナムへ派遣された([[朝鮮民主主義人民共和国のベトナム戦争参戦]])<ref>宮本悟・[[聖学院大学]]政治経済学部教授[https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00023/022000015/ 【オンラインゼミナール 世界展望~プロの目】北朝鮮とベトナム、その対立と和解 米朝首脳会談を開くベトナムの思惑]『[[日経ビジネス]]』(2019年2月22日)2019年5月31日閲覧。</ref>。また、過去には[[ベトナムの声]]の交換中継をしていた。一方でベトナムは北朝鮮の銀行関係者を追放するなど、国際連合の対北朝鮮[[経済制裁]]を実施している<ref>{{cite web | url = http://www.sankei.com/world/news/160427/wor1604270052-n1.html | title = 【対北制裁】北朝鮮の銀行幹部を追放、資金洗浄疑い ベトナム個人への制裁を初履行 | date = 2016-04-27 | publisher = 『[[産経新聞]]』 |accessdate=2016年09月22日 }}</ref>。
 
このほか、[[2019年2月米朝首脳会談|2019年2月の米朝首脳会談]]のホスト国も担った。
263行目:
=== 韓国との関係 ===
{{main|{{仮リンク|韓越関係|vi|Quan hệ Việt Nam - Hàn Quốc|ko|한-베트남 관계|zh|朝鮮半島與越南關係|en|South Korea–Vietnam relations}}}}
[[大韓民国]]は、ベトナム戦争時に「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」の[[スローガン]]の元で[[ベトナム戦争#韓国軍の参戦|ベトナムに出兵]]し、[[ベトナム共和国]]を支援するアメリカ合衆国側の軍隊として延べ30万人の[[大韓民国国軍]]が参戦した。また、戦争中に[[ハミの虐殺]]や[[タイビン村虐殺事件]]等、数々の民間人に対する大量[[虐殺]]事件を起し、[[ベトナム人]]女性に対して[[強姦]]を行った。その結果多くの[[ライダイハン]]が産まれたが、その子供はベトナム国内で[[差別]]の対象になっており、[[2013年]]時点でも正確な人数が判明していない。1998年にベトナムを訪問した[[大韓民国大統領|韓国大統領]][[金大中]]はベトナム戦争時の韓国軍の虐殺や強姦について「ベトナムの国民に苦痛を与えた点について申し訳なく思っている」とする謝罪の意を韓国大統領として初めて表明した<ref>「[http://japanese.joins.com/article/819/121819.html ベトナム訪問した李大統領、金大中・盧武鉉両氏は謝罪したが…]」『[[中央日報]]』(2009年10月21日)</ref>。
 
1992年に国交樹立し、2000年代以降両国は経済的な結びつきを強めている。韓国のキョンナムグループがハノイで一番高い建物[[京南ハノイランドマークタワー]]を所有し、またホーチミン市でも一番高い建物である[[ビテクスコ・フィナンシャルタワー]]を[[ヒュンダイ]]グループが建設するなどの件が象徴的である。またホーチミン市ではダイアモンドプラザやクムホアシアナプラザなどの韓国資本による商業ビルが多く開業している。特に中国からベトナムに携帯電話の生産拠点を移した[[サムスン電子]]はベトナムの輸出総額の2割近くを占めている<ref>{{cite web | url = https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM29H8W_Z20C17A6FF2000/ | title = ベトナム経済、強まるサムスン頼み 4~6月GDP6.2%増 | date = 2017-06-29 | publisher = 『[[日本経済新聞]]』 |accessdate=2018年02月19日 }}</ref>。
 
=== アメリカ合衆国との関係 ===
271行目:
[[ファイル:Bruce Crandall's UH-1D.jpg|thumb|260px|[[ベトナム戦争]]における[[アメリカ軍]]。]]
[[ファイル:NguyenMinhTriet & GeorgeWBush 2006-Nov-17.jpg|thumb|260px|[[ジョージ・W・ブッシュ]]大統領と[[グエン・ミン・チェット]]国家主席(2007年)]]
[[第二次世界大戦]]中は、アメリカ合衆国と現政権のルーツにあたる[[ベトミン]]との関係は対日戦の盟友であった。日本軍優勢の頃にインドシナに不時着したり、パラシュートで降下したりしたアメリカ軍航空隊<!--当時のアメリカには独立した空軍は存在せず、陸海軍と海兵隊がそれぞれの航空隊を運用していた。-->の兵士たちは、フランス植民地政府に見つかれば日本軍に引き渡されていたが、彼らのうち何人かはベトミンの手により救出されて事なきを得ている{{refnest|group="注"|[[1944年]]末頃、アメリカの航空将校ショウ中尉は飛行機事故のためカオバン付近の山地へパラシュートで降下したが、これを知ったフランス軍が数百名の部隊を派遣して、日本軍とともにその地域を包囲し、飛行機と操縦士の捜索を始めた。しかしその包囲が完成する寸前にショウ少尉はベトミンにより救出され、ベトミン三個小隊の護衛とともに国境のベトミン基地まで脱出、そこからホー・チミンに付き添われながら[[昆明市|昆明]]のアメリカ空軍司令部にたどりついたという。<ref>小山内宏著『ヴェトナム戦争 このおそるべき真実』(ミリオンブックス)56頁以下による。</ref>}}。また、アメリカ軍がベトナムに潜入し、タイグエンの日本軍飛行場を奪取した際には、ベトミンの戦闘部隊と作戦の協力を行っている<ref>小山内宏著『ヴェトナム戦争 このおそるべき真実』(ミリオンブックス)57頁</ref>。[[1940年代]]後半のベトナム独立時に制定された[[憲法]]は、旧宗主国フランスのみならず[[アメリカ合衆国憲法]]をも参考に作られており、[[1950年代]]にアメリカで[[レッドパージ|レッド・パージ]]([[マッカーシズム]])が起こった頃には、一時、ベトナムでは自らの共産党を法的に非合法組織としたことすらあった。
 
[[第一次インドシナ戦争]]でベトナムがフランスに勝利した後、アメリカがベトナムに介入した。ベトナムへの影響力を喪失した旧宗主国のフランスに代わり、アメリカ合衆国政府は[[南ベトナム]]に[[傀儡政権]]を樹立して、背後から操って間接支配を続けた。1954年に[[第一次インドシナ戦争|ベトナム独立戦争]]が終結した後、1960年にアメリカ合衆国の傀儡政権を打倒し、[[ベトナム人]]自身による[[民族自決]]統治を求める[[南ベトナム解放民族戦線]]が、南ベトナム政府軍に対する民族独立の武力闘争を開始した。
 
1961年にアメリカ合衆国政府は、南ベトナムに[[アメリカ合衆国軍]]や[[軍事顧問団]]を派遣し、[[傀儡政権]]である南ベトナム政府を支援し、[[トンキン湾事件]]を口実にベトナム戦争への軍事介入、南ベトナム解放戦線に対する掃討戦を開始した。詳しくは[[ベトナム戦争]](ベトナムでは「抗米戦争」と言われている)を参照。1965年に、[[アメリカ合衆国政府]]は[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]に戦線を拡大し、北ベトナムのみでなく、ベトコンが潜伏していた[[ラオス]]や[[カンボジア]]に設置された「[[ホーチミン・ルート]]」も同時期に大規模爆撃した。
282行目:
また、捕らえられた米兵は、別名「ハノイ・ヒルトン」(正式名称:[[ホアロー捕虜収容所]])に収容され、後に[[アメリカ合衆国上院]]議員となる[[ジョン・マケイン]]も収容され[[捕虜]]となった後、北ベトナム兵より[[拷問]]を受けた。(ハノイ・ヒルトンとは[[蔑称]]であり、本家「[[ヒルトンホテル]]」のことではない)。[[1999年]]に、本物のヒルトンホテルである「ヒルトン・ハノイ・オペラ」が、首都ハノイで開業している。
 
[[1975年]][[4月30日]]の[[サイゴン陥落]]で、ベトナム戦争でのアメリカ合衆国の敗戦が確定した。事前に進軍を察知したアメリカ合衆国は「[[フリークエント・ウィンド作戦]]」を決行し、自国民の保護の他に南ベトナムの要人も保護した。アメリカが支援していた南ベトナムからは、多くの難民([[ボートピープル]])が流出し、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、フランス、アメリカ、日本へと移民した。サイゴン陥落後から[[ソビエト連邦の崩壊]]を経て、[[ドイモイ]]政策後の[[1995年]][[8月5日]]、ベトナムとアメリカ和解し、当時の[[ビル・クリントン]]大統領は越米両国の国交を樹立させ、通商禁止も解除された。しかしアメリカは、[[1973年]]の[[パリ協定 (ベトナム和平)|パリ和平協定]]の戦時賠償事項を、2015年時点に至っても全く履行していない。
 
[[2000年]]には両国間の通商協定を締結し、アメリカがベトナムを[[最恵国待遇|貿易最恵国]]としたこともあり、[[フォード・モーター]]や[[ゼネラルモーターズ]]、[[コカ・コーラ]]や[[ハイアットホテルアンドリゾーツ]]といったアメリカの大企業が、ドイモイ政策の導入後の経済成長が著しいベトナム市場に続々と進出。[[2003年]]にベトナムの国防大臣は[[アメリカ国防総省]]([[ペンタゴン]])の歓迎式典で最大の敬意を払って迎えられた。
 
ベトナム政府は経済、外交などで対米接近を基本政策としており、[[ジョージ・W・ブッシュ]]大統領の来訪も大歓迎している。対米関係への配慮から、ベトナム戦争中の[[枯葉剤]]などについても、あえて「民間団体」に担当させて、政府は正面に出てこないくらいアメリカに気を遣っている。一般のベトナム人も、経済向上のためにはアメリカとの関係を緊密にすべきだと感じ、アメリカの観光客、企業代表などを熱く歓迎している。米軍に侵攻され、多大な被害を受けたにもかかわらず、政府・国民とも[[親米]]的な珍しい例である<ref>「[http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/74672 ベトナム戦争をめぐる歴史認識、そして謝罪]」IZA(2006年11月18日)</ref>。[[2010年]][[8月]]には国交復活15周年を記念し、空母[[ジョージ・ワシントン (空母)|ジョージ・ワシントン]]が中部[[ダナン市]]を訪問した。しかし、薬品会社は未だ枯葉剤問題に対して棄却して未解決であり、アメリカに激しい憎しみを持つ者も存在する。
 
アメリカは、南ベトナムからは82万人ものベトナムの難民を受け入れた。[[ベトナム系アメリカ人]]が故郷ベトナムに旅行するなど交流は活発になっているが、基本的に南ベトナムからの難民が大多数なので共産主義のベトナム本土とは対立が根深く、ベトナム政府関係者の訪米には抗議する傾向がある。
 
2015年7月7日には、ベトナム戦争後、最高指導者として初めて[[グエン・フー・チョン]]党書記長が訪米して、[[バラク・オバマ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]と[[ホワイトハウス]]で会談した<ref>{{cite news |language = | author = | url =http://www.viet-jo.com/news/politics/150708045241.html| title =「敵からパートナーに」チョン書記長が初訪米、オバマ大統領と会談| publisher =| date= 2015-07-09| accessdate =2015-07-13}}</ref>。2016年にオバマ大統領はベトナムを訪問し、武器輸出全面解禁を表明した<ref>{{cite news |language = | author = | url =http://www.cnn.co.jp/world/35083070.html| title =オバマ米大統領、ベトナムへの武器禁輸解除を表明| publisher =[[CNN]]| date= 2016-05-23| accessdate =2016-05-24}}</ref>。
 
=== フランスとの関係 ===
299行目:
[[1887年]]([[明治]]20年)- [[1945年]]([[昭和]]20年)。
 
ベトナムの植民地化を図る[[フランス第三共和政|フランス第三共和国]]は、[[1883年]]の[[癸未条約]](第一次フエ(ユエ)条約)と[[1884年]]の[[甲申条約]](第二次フエ(ユエ)条約)によってベトナムを保護国化した。ベトナムへの[[宗主国|宗主権]]を主張してこれを認めない[[清]]朝を[[清仏戦争]]で撃破し、[[1885年]]の[[天津条約 (1885年6月)|天津条約]]で清の宗主権を否定した。[[1887年]]には[[フランス領インドシナ|フランス領インドシナ連邦]]を成立させ、ベトナムは[[カンボジア]]とともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。[[阮朝]]は植民地支配下で存続していた。
 
[[1900年代]]になると、知識人の主導で民族運動が高まった。[[ファン・ボイ・チャウ]]は、日本に留学生を送り出す[[東遊運動]](ドンズー運動)を展開した。[[1917年]]に[[ロシア革命]]によって[[ソビエト連邦]]が成立すると、[[コミンテルン]]が結成され植民地解放を支援した。こうした中で、コミンテルンとの連携の下での民族運動が強まった。[[1930年]]には[[インドシナ共産党]]が結成され、第二次世界大戦中のベトミン([[ベトナム独立同盟]])でもホー・チ・ミンのもとで共産党が主導的な役割を果たした。
306行目:
[[1939年]][[9月1日]]にヨーロッパで[[第二次世界大戦]]が勃発すると、その翌年[[1940年]]から、[[フランス領インドシナ]]に[[日本軍]]が進駐した([[仏印進駐]])。当時は、日本と[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]が[[日独伊三国同盟|同盟]]を結んでおり、大戦勃発当初は日独両国はフランスと軍事的に敵対していたが、1940年時点では、フランスはナチスドイツに降伏しており、日本は{{要出典範囲|date=2013年3月|その隙を衝いて}}仏印進駐を行ったのである。
 
仏印進駐後のベトナムは、フランスと日本による二重支配に置かれた。日本は「[[大東亜共栄圏]]」の建設を呼号し、[[明号作戦]]の結果、カンボジアとラオスと同時期の[[1945年]][[3月11日]]、[[ベトナム帝国]]としてフランスからの再独立を果たした。このベトナム帝国の成立は、[[阮朝]]が[[王政復古]]を果たした日でもあった。ところが、[[1944年]]秋から1945年春にかけてベトナム一帯を凶作が襲い、多数の人々が餓死した。日本の[[ポツダム宣言]]受諾表明に至る1945年8月14日から15日にかけて、インドシナ共産党の全国大会がタンチャオ(トゥエンクアン省)で開かれた。そこで全国的な総蜂起が決定され、全国蜂起委員会が設立された。委員会は軍令第1号全人民に決起を呼びかけた。次の16日に各界・各団体・各民族の代表が出席する国民大会が同地で開かれた。大会は全会一致で総決起に賛成し、ベトナム民族解放委員会を設立してホー・チ・ミンを主席に選出した。同主席は全国民に書簡で総決起を呼びかけた。
 
その3日後に[[ベトナム八月革命]]が勃発し、ベトナム帝国皇帝[[バオ・ダイ]]は[[8月30日]]に退位を宣言した。そして、[[9月2日]]には、ホー・チ・ミンは臨時政府を代表して[[ベトナム独立宣言]]を読み上げ、国民と世界に向けて[[ベトナム民主共和国]]の誕生を宣言した。
 
現在のベトナムの食卓で見かける[[ベトナムコーヒー]]や[[フランスパン]]、[[バインミー]]、[[ワイン]]は、仏領インドシナの名残りである。[[シエスタ]]([[昼寝]])の[[習慣]]、[[ダラット]]で見かける[[高級ホテル]]や[[別荘]]、[[カトリック教会]]の[[聖堂]]である[[ハノイ大教会]]や[[サイゴン大教会]]、[[ダナン大教会]]さらに[[ホイアン]]の古い町並みは、フランス統治時代の面影を色濃く遺している。また、現在は[[世界遺産]]である[[ミーソン聖域]]の修復を施したのも、フランスの[[フランス極東学院]]であるが、ベトナム戦争時に、ここを拠点にしていた[[南ベトナム解放民族戦線]](ベトコン)アジト掃討のために、[[アメリカ空軍]]の[[爆撃機]]・[[B-52 (航空機)|B-52]]によって破壊された。
{{節スタブ}}
 
321行目:
 
==== 明治時代から昭和前半 ====
ベトナム最期の王朝である[[阮朝]]は、[[フランス共和国]]の植民地侵攻により、[[フランス領インドシナ]]となってしまった。[[1905年]]、[[日露戦争]]で[[帝政ロシア]]に対する日本の勝利が、[[ファン・ボイ・チャウ]]などベトナムの知識人らに知れ渡り、ベトナムが独立するための武器援助を日本に求めるため来日した。彼らの要請は[[犬養毅]]によって拒否されたが、代わりに勉学に勤しむことを提案され、日本へ留学する「[[東遊運動]]」が盛んになった。しかし、フランスは日本に圧力をかけて[[1907年]]に[[日仏協約]]を締結させ、日本在住のベトナム人を追放させた。
 
==== 第二次世界大戦 ====
328行目:
戦争終結後に生じた権力の空白は[[ベトナム独立同盟]](ベトミン)に有利に作用し、1945年8月の日本敗戦直後にホー・チ・ミン(阮愛国)率いるベトミンは[[バオ・ダイ|保大帝]]を退位させて[[ベトナム八月革命]]を達成した。駐留期間の大半においてフランスの同盟国軍として植民地政府に加担したことで、日本もフランスと同類の[[帝国主義]]国に過ぎないと見做されている<ref group="注">ホー・チ・ミンによる独立演説「1940年の秋に、[[ファシスト]]日本が連合国との戦いにおいて新しい基地を確立する為にインドシナ半島の領域を荒らした時、フランスの帝国主義者は彼らに膝を曲げてひざまずいて、我々の国を彼らに手渡した。このように、その日付から、我々の身内は、フランス人と日本人の二重の軛に服従した。」</ref>。
 
[[第二次世界大戦]]末期の1945年に、トンキンを中心にベトナム北部で大飢饉が起こり、大量の[[餓死]]者が発生した。ホー・チ・ミンが独立宣言の中でフランス・日本の二重支配によって200万人が餓死したと演説しており、ベトナム国内ではこの200万人という数字は広く知られている(「[[ベトナム独立宣言]]」参照)が、日本軍の戦後の調査では犠牲者数は40万人とされている(『ドキュメントヴェトナム戦争全史』[[岩波現代文庫]]、2005年)。戦後の日本は、南ベトナム政府に賠償として140億4000万円(3900万ドル)を供与した。北ベトナム政府に対しては1973年の国交樹立により「経済協力」の形で4500万ドル相当の賠償金を支払った。
 
==== 第二次世界大戦後 ====
第二次世界大戦後、フランスが再び進駐してくると、[[フランス軍]]と[[ベトナム民主共和国]]軍の間で戦争([[第一次インドシナ戦争]])が始まった。仏越両軍に[[残留日本兵]]が多数参加し、ベトナムの独立に対して多大な貢献をした。当時、ベトナムには766人の日本兵が留まっており、[[1954年]]のジュネーヴ協定成立までに47人が戦病死した。中には、[[陸軍士官学校]]を創設して約200人のベトミン士官を養成した者もおり、[[1986年]]には8人の元日本兵がベトナム政府から表彰を受けた。ジュネーヴ協定によって150人が日本へ帰国した150人以外はその他はベトナムになお留まり続けた模様である。
 
[[1951年]]に日本政府は[[ベトナム国]]([[南ベトナム]])と平和条約を締結し、[[1959年]]には[[岸信介]]首相(当時)が国名を変更した[[ベトナム共和国]]政府と140億4000万円の[[日本の戦争賠償と戦後補償|戦争賠償]]支払いで合意した。
352行目:
|archivedate = 2010年11月18日
|deadurldate = 2017年9月
}}</ref>、翌[[2009年]](平成21年)2月には、ハノイ、ダナン、[[ホイアン]]、ホーチミン市とベトナム各地を縦断して訪問し、[[上皇明仁|明仁上皇]]が皇太子時代の[[1976年]](昭和51年)に南部の[[カントー川]]支流で新種の[[ハゼ]]が見つかったことを明らかにした[[学術論文]]をハノイ自然科学大学に寄贈した<ref>{{cite news
|url = http://sankei.jp.msn.com/world/asia/090306/asi0903061942001-n1.htm
|title = 天皇陛下の新種ハゼ論文、ベトナムに寄贈
377行目:
 
==== 政府開発援助・価値観外交 ====
[[政府開発援助|ODA]]は日本が最大の支援国であり、日本のODAによって[[タンソンニャット国際空港]]や[[カントー橋]]など、ベトナムの基幹[[インフラ]]を建設・支援をしている。
 
==== 教育・文化交流事業 ====
{{See also|ベトナムの日本語教育}}
* 日本の広報拠点として、[[2002年]]に[[JICA]]プロジェクトとして[[ベトナム日本人材協力センター]] (VJCC) が開設され、[[2008年]]に[[国際交流基金]]の[[ベトナム日本文化交流センター]]が開設された。
* [[日本語教育]]については、[[1943年]]([[昭和]]18年)にサイゴンで[[日本語]]が教えられていたとの記録がある。2003年に国際交流基金の「ベトナム中等学校における日本語教育試行プロジェクト」が始まる。[[2006年]]時点でベトナム全土の日本語学習者数は29,982人(2003年比1.7倍<ref group="注">国際交流基金日本語教育機関調査</ref>)。[[2007年]]に[[ハノイ日本語教師会]]が発足した<ref group="注">発起人は[[中野英之]]。</ref>。2009年5月時点で、ベトナムから日本への留学生数は3,199人で前年比11.3%増、国別では第4位。2009年12月の[[日本語能力試験]]受験者数は15,455人で前年比12%増。
*2016年9月9日、「[[日越大学]]」が開校した、日本の政府、大学が協力する<ref>{{cite news | url =http://www.jiji.com/jc/article?k=2016090800751&g=eco| title =日越大学、9日に開校=関係強化へ人材育成支援| publisher =[[時事通信]]| date= 2016-09-08| accessdate =2016-11-08}}</ref>。
 
388行目:
{{main|ベトナムの地方行政区画}}
[[ファイル:Administrative map of Vietnam from Aug2008.png|thumb|400px|ベトナムの地方行政区画。]]
2011年4月の改正により、58省と、5の中央直轄城庯(市)となった。中央直轄城庯は[[ハノイ]](河内)、[[ホーチミン市]](胡志明)、[[ダナン]]({{lang|vi|沱㶞}})、[[ハイフォン]](海防)、[[カントー]]({{lang|vi|芹苴}})。国土最北に位置する省は[[ハーザン省]]({{lang|vi|''Hà Giang'', 河楊}})、国土最南に位置する省は[[カマウ省]] ({{lang|vi|''Cà Mau''}}) である。ベトナムは自治体独自の旗を禁止しているため自治体ごとの旗は存在しない<ref>『世界地方旗図鑑』59頁</ref>。
 
=== 主要都市 ===
423行目:
[[ファイル:Ban Gioc - Detian Falls2.jpg|thumb|260px|ベトナム北部の[[徳天瀑布]]。]]
[[File:Langco.jpg|thumb|260px|[[トゥアティエン=フエ省]]の砂浜。]]
ベトナムの国土は南北1,650km、東西600kmに広がる。[[インドシナ半島]]の[[太平洋]]岸に平行して南北に伸びる[[チュオンソン山脈]]([[アンナン山脈]])の東側に国土の大半が属するため、東西の幅は最も狭い部分ではわずか50kmしかない。細長いS字に似た国土の形状を、ベトナムでは米かごを吊るす[[天秤棒]]に喩えている。天秤棒の両端には大規模なデルタが広がり、人口の7割が集中する。北の[[デルタ地帯]]は[[ソンコイ川|紅河]](ソンコイ川)によるもので、首都ハノイのほか[[港湾都市]]ハイフォンが位置する。南のデルタ地帯は[[メコン川]]によるもので、最大の都市ホーチミンを擁する。
 
沿岸の総延長距離は3,260km、北部国境(中国国境)の長さは1,150km、国境の総延長距離は、6,127kmである。
 
沿岸には北部・[[トンキン湾]]を除き、島嶼がほとんど存在しない。本土から離れた領土として、[[海南島]]との間にある[[バクロンヴィー島]]、[[ホーチミン市]]から約600km東、[[南シナ海]]に浮かぶ、ベトナム語名「チュオンサ」(スプラトリー諸島、[[南沙諸島]])と、[[ダナン]]の約400km[[東]]、南シナ海に浮かぶ、ベトナム語名「ホアンサ」(パラセル諸島、[[西沙諸島]])の領有権を主張している。チュオンサ群島は一部を実効支配し、ホアンサ群島は全体が[[中華人民共和国]]の[[実効支配]]下にある。ベトナム最大の島は、最西端の領土となる、[[シャム湾]]に浮かぶ[[フークォック島]]である。
 
主要な河川は紅河([[支流]]である[[カウ川]]、[[ロー川]]、[[ダー川]])、[[タインホア]]に河口を持つ[[マー川]]、[[ヴィン]]に近い[[カー川]]、中部の[[トゥイホア]]に河口を持つ{{仮リンク|バー川|en|Đà Rằng River}}、南部の[[ドンナイ川]]、[[メコンデルタ]]の[[メコン川]]である。天然の湖沼はデルタに残る[[三日月湖]]がほとんどである。最高峰は北部国境に近い[[ファンシーパン山]] (3,143m)。アンナン山脈中の最高峰は、中部のフエやダナンに近いアトゥアト山 (2,500m) である。
438行目:
 
=== 気候 ===
ベトナム全土は[[北回帰線]]よりも南に位置し、[[赤道]]近くまで伸びる(本土の最南端は北緯8度33分)。このため南西[[モンスーン]]の影響を強く受ける。7月から11月まで[[台風]]の影響を受け、特に国土の中央部が被害を受けやすい。
 
北部は温帯性の気候であり、4月から10月までが[[雨期]]となる。首都ハノイの平均気温は1月が16℃、7月が29℃である。年平均降水量は1,704mm。[[チュオンソン山脈]]の影響により、山岳地帯では降水量が4,000mmを超える場所もある。[[ケッペンの気候区分]]では、[[温帯夏雨気候|温帯夏雨気候(温暖冬季少雨気候)]] (Cw) に分類されている。
699行目:
=== 地方区分 ===
[[ファイル:Vietnameseregions japanese.png|thumb|right|150px|ベトナムの地方]]
ベトナムでは、[[日本の地域]]と同様の慣用的な[[地方]]の区分として、ベトナム全土を[[ベトナムの地方行政区画|地方行政区画]]に沿って[[西北部 (ベトナム)|西北部]]、[[東北部 (ベトナム)|東北部]]、[[紅河デルタ]]、[[北中部 (ベトナム)|北中部]]、[[南中部 (ベトナム)|中南部]]、[[中部高原]](タイグエン)、[[東南部 (ベトナム)|東南部]]、[[メコンデルタ]]の8つに分けている。
 
また、より大枠な地方の区分として、西北部・東北部・紅河デルタを{{仮リンク|北部地方 (ベトナム)|label=北部地方|vi|Miền Bắc (Việt Nam)}}(北ベトナム、{{vie|v=Miền Bắc|hn=沔北}})、中北部・中南部・中部高原を{{仮リンク|中部地方 (ベトナム)|label=中部地方|vi|Miền Trung (Việt Nam)}}(中部ベトナム、{{vie|v=Miền Trung|hn=沔中}})、東南部・メコンデルタを{{仮リンク|南部地方 (ベトナム)|label=南部地方|vi|Miền Nam (Việt Nam)}}(南ベトナム、{{vie|v=Miền Nam|hn=沔南}})の3つに区分している。これらは、[[フランス領インドシナ|フランス植民地時代]]の[[トンキン]]、[[アンナン]]、[[コーチシナ]]にそれぞれ相当するが、細部に変更がみられる。
783行目:
[[ファイル:Nhatrang rue tran phu.jpg|thumb|260px|リゾート地として有名な[[ニャチャン]]]]
[[ファイル:A Saigon bus.JPG|thumb|right|260px|ホーチミンのバス]]
[[世界銀行]]の統計によると、[[2018年]]のベトナムの[[GDP]](国内総生産)は2,372億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]。一人当たりのGDPは2,387ドルである<ref>[https://data.worldbank.org/country/vietnam Vietnam]世界銀行</ref>
 
[[1986年]]12月のベトナム共産党第6回大会で、社会主義に[[市場経済]]システムを取り入れるという[[ドイモイ|ドイモイ政策]]を採択、中国の[[改革開放]]と同様に市場経済路線へと転換した。[[1996年]]のベトナム共産党第8回大会では、[[2020年]]までに工業国入りを目指す「工業化と近代化」を二大戦略とする政治報告を採択した。ドイモイ政策の導入以降、ベトナムの貧困率は大幅に改善され、1993年の58.1%から2015年には5%以下となった<ref>[http://jijiweb.jiji.com/info/sample/sample_vietnam.pdf 時事速報VIETNAM]時事通信ハノイ支局{{出典無効|date=2020-05-24 |title=出典となる記述が見当たらず。}}</ref>
 
[[政府開発援助]]と外国投資が経済を牽引している。2007年には政府にとって重要な目標となっていた[[世界貿易機関]](WTO)に加盟した。[[世界金融危機]]で一時失速した[[国内総生産]] (GDP) の成長率も、2010年代は平均して5~6%の安定成長が続いている。一方インフレ率は、2011年に18.7%と高い数値を記録したが、2017年には3.5%となった。中国では[[人件費]]が上昇基調にあることから、新たな投資先として注目が集まっている。[[欧州連合]](EU)は[[新興国]]で初のFTAを結ぶ相手にベトナムをんだ<ref>{{cite news|url=http://www.bloomberg.co.jp/news/123-NSLHZ56TTDS101.html|title=EU:ベトナムとFTA大筋合意-新興国で初、17年末発効予定|publisher=[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]]|date=2015-08-05}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM03H5W_T01C15A2000000/|title=ベトナムとEU、FTA合意文書に署名|publisher=『日本経済新聞』|date=2015-12-03}}</ref>、2020年8月1日に発効した<ref>[[日本貿易振興機構]](JETRO)ビジネス短信:[https://www.jetro.go.jp/biznews/2020/07/5723c9b8fe63a5e8.html EU・ベトナムFTA、8月1日に発効](2020年7月31日)2020年9月4日閲覧</ref>。
 
伝統的な友好国である旧ソ連圏である[[ユーラシア経済連合]]も初のFTAをベトナムとんだ<ref>{{cite news|url=http://jp.rbth.com/business/2015/06/03/andfta_53069.html|title=ユーラシア経済連合&アジアの自由貿易協定|publisher=[[ロシア新聞]]|date=2015-06-03}}</ref>。また、[[環太平洋戦略的経済連携協定]](TPP)では、米国政府によれば最も利益を受ける国とされ<ref>{{cite news|url=http://jp.rbth.com/business/2015/06/03/andfta_53069.html|title=米通商代表「ベトナムはTPPから最も多くの利益を受ける」|publisher=VIETJO|date=2014-10-24}}。ただしアメリカは、[[バラク・オバマ]]政権時代に署名したTPPから、[[ドナルド・トランプ]]政権が離脱した。</ref>、日本政府によれば交渉でも主導的な役割を果たしており<ref>{{cite news|url=http://www.viet-jo.com/news/economy/141024091633.html|title=TPP交渉の舞台裏、甘利大臣明かす「ベトナムが"100%カード"切って主導権」|publisher=[[マイナビニュース]]|date=2015-10-21}}</ref>、世界銀行によればTPPで最も恩恵を受ける国である<ref>{{cite news|url=http://japanese.joins.com/article/569/210569.html|title=
TPP発効の恩恵、ベトナムが最高…世界銀行「韓国に若干の打撃」|publisher=『[[中央日報]]』|date=2016-01-08}}</ref>。
 
798行目:
主な輸出品目は[[原油]]、衣料品、農水産物。特に[[コメ]]については、タイに次ぐ世界第二位の輸出国であったが、現在{{いつ|date=2014年11月}}は輸出制限措置をとっている。[[カシューナッツ]]と黒[[胡椒]]の生産は世界の1/3を占め1位。コメのほか[[コーヒー]]、[[茶]]、[[ゴム]]、魚製品の輸出も多い。しかし、農業のGDPに占める割合は他の産業が成長したため20%(2006年)に低下した。原油生産は東南アジアで第3位である。
 
人件費は[[中華人民共和国|中国]]のおよそ6割であり、政府も自国の売り込みを積極的に行っているが、輸送網が良いとは言えず([[1988年]]の中国と同程度。ただし、中国も[[2010年]]現在、沿岸部では賃金が高騰しているため、輸送網の悪い内陸部に工場を移さざるを得なくなっている)、また、法律もアバウトである。こうした点から、衣料品など、低付加価値製品の生産が[[2010年]]時点に至るまでな生産品は衣料品など低付加価値製品になっているベトナムであるが、[[サムスン電子]]と[[キヤノン]]は、莫大な資金を投じてベトナムで電子機器の生産・サービス拠点の建設を進めており、ベトナムが中国に次ぐ「世界の工場」の座を射止めることができるかが世界の企業家から注目されている<ref>{{Cite news|url=http://www.cnn.co.jp/business/AIC201006120007.html|title=ベトナムは第2の中国になれるか|publisher=[[CNN]].co.jp|date=2010-6-12|accessdate=2010-6-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100614032401/http://www.cnn.co.jp/business/AIC201006120007.html|archivedate=2010年6月14日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。
 
社会主義国として経済の根幹をなしてきた国有企業とは別に、民間企業が台頭している。[[不動産]]会社として2001年に[[起業]]した後に[[小売業]]、[[製薬]]、[[学校]]・[[病院]]経営、農業・[[飼料]]からベトナム初の[[自動車]]生産にまで進出したビン・グループ、[[ベトジェット]]を傘下に持つソビコ・ホールディングス、不動産業のFLC、BRGなどが[[財閥]]を形成しつつある。これらを含めた大手企業の経営者は10大富豪と呼ばれる。旧ソ連への留学組が創業・経営し、政治家や政府高官との人脈を利用して事業を成長させてきた例が多いと指摘されている<ref>「ベトナム不動産最大手ビングループ 止まらぬ多角化/製薬・コンビニ・自動車…外資提携 工業立国けん引」『[[日経産業新聞]]』2018年4月26日(グローバル面)</ref><ref>ベトナム「不動産財閥」勃興 土地神話バネに複合企業体/留学人脈の政治力 後ろ盾『日経産業新聞』2019年12月11日(1面)</ref>。
812行目:
 
=== 鉱業 ===
ベトナムは[[石炭]]や南シナ海で採掘される[[石油]]を中心とした有機鉱物資源、[[スズ]]を中心とした金属鉱物資源に恵まれている。北部ハロン(ホンゲイ)から産出する石炭は上質の無煙炭であり、19世紀末からホンゲイ炭として採掘が始まっている。石炭技術で[[釧路コールマイン]]との繋がりが太く、北海道[[釧路市]]に名誉領事館を設置している。2003年時点の採掘量は16701,670万トン。ベトナムは[[]]でもあり、1660は1,660万トンの[[原油]]を産出する[[産油国]]でもあり、[[天然ガス]]の採取量は126千兆[[ジュール]]となっている
 
金属鉱物資源は、北部デルタ周囲の丘陵地帯に主に産する。最も重要なのが世界第4位の[[スズ]](4000トン、世界シェア1.5%、2005年)。[[亜鉛]]、[[金]]、[[クロム]]、[[鉄]]、[[鉛]]のほか、[[リン鉱石]]を産出する。
827行目:
=== 民族構成 ===
{{main|ベトナムの民族一覧}}
ベトナムでは公式に認められている民族が54あり、そのうち[[キン族]](ベトナム族)が最も多く、全人口の85%から90%を占める。キン族の言語である[[ベトナム語]]はムオン族・セダン族などと同じ[[オーストロアジア語族]]([[モン・クメール語派]])語族に属する。[[ムオン族]]はホアンビン省、タインホア省の山間部に住み、ベトナム語のゲアン方言などとの近似性が指摘されている。<ref>西村昌也「ベトナム人の由来」 / 今井昭夫・岩井美佐紀編著『現代ベトナムを知るための60章』(明石書店 2004年)23ページ</ref>
 
その他に[[少数民族]]として[[ホア族]]([[華人]])、[[タイ族|タイ系]]の[[タイー族]]・[[タイ人|ターイ族]]・[[ヌン族]]、[[クメール人|クメール族]]、[[ムオン族]]、モン族([[ミャオ族]])、[[ヤオ族|ザオ族]]などがある。少数民族のうち、ホア族とクメール族以外の大半は山地に住む。
836行目:
=== 人名 ===
{{main|ベトナムの人名}}
主要民族である[[キン族]]を中心に、ベトナムの人名の多くは、[[漢字文化圏]]に属しており、人名も漢字一字(まれに二字)の[[漢姓]]と、一字か二字(まれに三字)の名からなる構造は中国と共通している。婚姻の際には基本的に[[夫婦別姓]]となる。しかし各字の機能は漢名とは異なっており、名のうち一字目は「間の名」({{lang|vi|tên đệm}}、ミドルネーム)と呼ばれ、末字の名と一体化しておらず、また中国の[[輩行字]]、[[朝鮮]]の行列字のような世代の区別に使われることもない。目上や目下に対しても、呼びかけに使われるのは末字の名のみであり、間の名は含まれず、また姓を呼びかけに使うことはほとんどない。
 
名付けに使われる語は必ずしも漢字由来のものに限らず、庶民の間では[[固有語]]による名付けがかなり存在している。また少数民族の名前には、上記の説明にあてはまらない固有のシステムを持つものがある。
 
なお、40年以上にわたってベトナムでも用いられていた[[戸籍]]制度(中国式戸籍制度)について、ベトナム政府は2017年に撤廃を発表している<ref>「[https://www.epochtimes.jp/p/2017/11/29413.html ベトナムが中国式戸籍制度を廃止 民主主義への歩み寄りか]」『[[大紀元時報]]』 2017年11月8日(2020年9月4日閲覧)</ref>。
 
=== 文字 ===
詳細については、各項目を参照のこと。
; [[クオック・グー|チュ・クオック・グー]]({{拡張漢字|B|&#137784;}}國語)
: 声調をもつ[[ベトナム語]]を表記するために発明された声調入り[[アルファベット]]([[ラテン文字]])であり、現在唯一の公用文字。[[17世紀]]に[[フランス人]]の[[イエズス会]][[宣教師]]、[[アレクサンドル・ドゥ・ロード]]が、ベトナムでの[[カトリック教会]]布教の為に発明した文字。[[19世紀]]末以降の[[フランス領インドシナ|フランス植民地]]時代に普及し、1945年の独立時に正式に公用文字となった。現在、[[ベトナム語]]はもっぱら、この文字により表記される。
 
;[[チュハン]]({{拡張漢字|B|&#137784;}}漢)
: ベトナムにおける[[漢字]]。上記のチュ・クオック・グーが公用文字となるまで、ベトナム語を表記する公用文字はなく、書き言葉としてはもっぱら[[漢文]](古中国語)が用いられた。チュ・クオック・グーの普及により使用頻度が減少したが、ベトナム語の中には漢字語の影響が強く残っている。[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]では[[1950年]]の暫定教育改革により漢文教育を廃止し、[[1954年]]には漢字の公的な使用を全廃、[[ベトナム共和国|南ベトナム]]では[[1975年]]の崩壊まで[[中等教育]]での漢文科が存続していた。2014年現在では、ベトナムの[[僧侶]]か[[日本語]]や[[中国語]]の学習者しか読めなくなっている。
 
; [[チュノム]]({{拡張漢字|B|&#137784;}}喃)
861行目:
[[ファイル:Chua Mot Cot.jpg|thumb|220px|ハノイの[[仏教]]寺院、[[一柱寺]](正式名称は'''延祐寺'''、もしくは'''蓮花臺''')。]]
[[ファイル:HCMC Notre Dame Cathedral.jpg|thumb|220px|[[カトリック教会]]の[[サイゴン大教会]]。]]
宗教は[[仏教]]([[大乗仏教]])が大半を占めている。その他にも[[道教]]、[[カトリック教会]]がある。中部(旧[[チャンパ王国]]の領域)では[[イスラム教]]や[[ヒンドゥー教]]、南部には[[ホアハオ教]]や、[[混淆宗教]]としての[[カオダイ教]]が教勢を保っている。公的に認められた宗教は、仏教、カトリック、[[プロテスタント]]、[[イスラム教]]、カオダイ教、ホアハオ教の六つである。このうち後ろの二つは、ベトナムで生まれたベトナム独自の宗教である<ref>『現代ベトナムを知るための60章』第2版198頁</ref>
 
カトリック教会は、[[バチカン市国]]と国交を樹立しておらず、[[プロテスタント]]に関しては、アメリカ合衆国の宣教団体からの布教が強かった経緯もあり、旧南ベトナム地域および、ベトナム戦争中に南側についた[[バナール族|バフナル族]]、[[ジャライ族]]、[[エデ族]]、[[コホ族]]などの山岳民族の間での信仰が中心である。
906行目:
 
=== 文学 ===
18世紀末から19世紀初め頃に文官[[グエン・ズー]]が、[[明]]末[[清]]初頃に成立した[[白話小説]]『[[金雲翹伝]]』を[[韻文]]に翻訳し、[[チュノム]]で『[[金雲翹]]』を書いた<ref>[[川口健一]]「ベトナム文学」『翻訳百年――外国文学と日本の近代』原卓也、西永良成編、[[大修館書店]]、東京、2000年2月10日、初版第一刷、242-243頁。</ref>。以来、『金雲翹』はベトナムの国民的な古典文学作品と看做されている<ref>[[川口健一]]「ベトナム文学」『翻訳百年――外国文学と日本の近代』原卓也、西永良成編、大修館書店、東京、2000年2月10日、初版第一刷、241-245頁。</ref>。
 
=== 芸能 ===
922行目:
ベトナム生まれの総合武術「[[ボビナム]]」(Vovinam)が国技である<ref>[http://www.vietnam-football.com/newszoom/others/131220042326.html シーゲーム、ベトナム勢が国技ボビナムなどで金メダル - [サッカーニュース]、VIETNAM-FOOTBALL - ベトナムフットボールダイジェスト、閲覧2017年9月18日]</ref>が、ほかにも国技的と言えるほどの人気なスポーツは[[ベトナムサッカーリーグ|プロリーグ]]もある[[サッカー]]や、伝統的スポーツ「[[ジェンズ|ダーカウ]]」なども深く浸透している。他にもベトナム相撲と呼ばれる「[[ヴァット]]」がある。
 
[[1952年]]の[[1952年ヘルシンキオリンピック|ヘルシンキ大会]]以来、[[夏季オリンピック]]に選手団を送っており、過去、[[射撃]]、[[テコンドー]]、[[重量挙げ]]でメダルを獲得している。[[2016年]]の[[2016年リオデジャネイロオリンピック|リオデジャネイロ大会]]では射撃で[[ホアン・スアン・ビン]]がベトナム初のオリンピック金メダルを獲得。「[[オリンピックのベトナム選手団]]」を参照。
 
=== 世界遺産 ===
ベトナム国内には[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が5件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が2件存在する。
{{Main|ベトナムの世界遺産}}
 
1,003行目:
|lang="vi"|Ngày Nhà giáo Việt Nam<br/>
𣈗家教越南
|[[1982年]]制定。先生や教師に対して感謝する日。学校では感謝[[パーティ]]が催され、生徒等から先生に[[贈り物]]が渡される<ref group="注">ベトナムでは、教師の[[給与]]は極めて低く、教職は貧しいが人々から尊敬される職業の代表である。</ref>。祝日。
|-
|}
1,015行目:
=== 報道規制 ===
* [[1975年]]までの[[ベトナム共和国]](南ベトナム)では[[ゴ・ディン・ジエム]]政権や[[グエン・バン・チュー]]政権などの独裁政治を批判する[[知識人]]グループ「第三勢力」の活動が続いた。しかし、[[1976年]]に南北統一によってベトナム社会主義共和国が成立した後、[[レ・ズアン]]指導部は硬直化した官僚政治を推し進め、メディアの活動を抑制する路線をとった。[[1980年代]]後半に、[[グエン・ヴァン・リン]]書記長が[[ドイモイ]]路線を推し進め、新聞や雑誌にも活況を与えた。[[1986年]][[3月1日]]に[[ホーチミン市]]で新聞『[[タインニエン]]』が創刊された。
* [[1989年]]に、[[中華人民共和国]]で[[六四天安門事件]]が発生し、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]で「[[ベルリンの壁]]」[[ベルリンの壁崩壊|が崩壊すると]]、ベトナムはメディアを抑制する路線に切り替えた。同年[[12月]]、「マス・メディア法」が制定され、刑法258条にて報道禁止条項が明記された<ref>鈴江康二「マスコミと情報化」/ 今井昭夫・岩井美佐紀編著『現代ベトナムを知るための60章』(明石書店 2004年)189-190ページ</ref>。
 
=== インターネット ===
* 2018年現在、6850万人が[[インターネット]]を使用している<ref>{{Cite web|url=https://www.bbc.com/news/world-asia-pacific-16567840|title=Vietnam profile - Media|accessdate=2020年12月20日|publisher=BBC}}</ref><ref>{{Cite news|title=Vietnam country profile|date=2018-09-24|url=https://www.bbc.com/news/world-asia-pacific-16567315|accessdate=2018-11-05|language=en-GB|work=BBC News}}</ref>。また、政治的発言をする[[ブログ|ブロガー]]が逮捕されるなどの事件を受け、『[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]』は「[[スマートフォン]]や[[タブレット端末]]が、ベトナムで急速に普及しているものの、世界で最もインターネットを利用するのが危険な国の1つでもある」と、指摘している<ref>{{cite news
| author = JAMES HOOKWAY
| url = http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887324353404579084363539895326.html?dsk=y