「三岸節子」の版間の差分

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[[名古屋市]]の淑徳高等女学校(現・[[愛知淑徳中学校・高等学校|愛知淑徳高等学校]])卒業後上京し、[[本郷洋画研究所]]で[[岡田三郎助]]に師事<ref name ="hanabi32">花美術館 Vol.32</ref>。女子美術学校(現・[[女子美術大学]])の2年次に編入学し<ref name ="hanabi32"/>、首席で卒業した<ref name ="sugao"/>。[[1924年]]に[[三岸好太郎]]と結婚し<ref name ="sugao"/>、[[1930年]]に長男黄太郎を出産するも、[[1934年]]に夫と死別<ref name ="sugao"/>。生活は苦しかったが、[[太平洋戦争]]中も疎開をせず、明るい色調の[[静物画]]を多数描いた<ref>{{Cite web|title=三岸節子回顧展:命燃やし、咲き誇る花|url=https://mainichi.jp/articles/20160420/ddf/012/040/007000c|website=毎日新聞|accessdate=2020-06-18|language=ja}}</ref>。[[1946年]]、[[女流画家協会]]を創立。[[1948年]]から[[菅野圭介]]と事実上の婚約関係にあったが、[[1953年]]に破局。
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[[1954年]]に息子黄太郎が留学していた[[フランス]]に渡り、[[1968年]]には[[南フランス]]の[[カーニュ=シュル=メール|カーニュ]]に、[[1974年]]には[[ブルゴーニュ地方]]の農村{{仮リンク|ヴェロン (フランス)|en|Véron}}に定住した。息子の黄太郎とともに[[ヨーロッパ]]の各地を巡って[[風景画]]の傑作を生み出し、言葉の通じない異国での孤独感や老化による体の衰えと闘いながら絵を描いた。 [[1989年]]に帰国した時、節子は84歳になっていた。以降は[[神奈川県]][[大磯町]]の自宅兼アトリエにて制作を続けた。
 
== 年譜 ==