「明智光秀」の版間の差分

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なお、この足軽衆とは雑兵ではなく、行列などの際に徒歩で従う[[侍]]のことである{{sfn|藤本|2010|p=48}}。これは末尾に名字だけで記載され、当時の義昭にとって光秀は取るに足りない存在だとうかがわせる。室町幕府では、土岐氏は三[[管領]][[四職]]家に次ぎ諸家筆頭の高い家格で、十余支族も幕府[[奉公衆]]となり、土岐明智氏などは将軍家と結んで独自の地位を築いた。その奉公衆や外様衆などの高位に就いてきた「土岐明智氏」の家系に連なる者を、形式的な伝統を重んじ家格に配慮する義昭が、足軽衆に格下げして臣従させたことになり、「土岐明智氏」なのか疑問がもたれている{{Sfn|谷口研|2014|pp=15, 30-33, 82-83}}。また、光秀を奉公衆「土岐明智氏」と直接結びつけた現存の系譜の信憑性に疑いを持って「土岐明智氏」が事実だとしても傍流出身であったとする説もある{{Sfn|柴(総論)|2019|pp=8-9}}。ただし、現在残されている番帳(『永禄六年諸役人附』)は原本とは見なされず、足軽衆「明智」は後世の追記と見る説もある<ref>{{Cite book|和書|author=小林正信|title=明智光秀の乱|publisher=里文出版|year=2014|page=154}}</ref>。
 
[[小林正信]]は、[[永禄の変]]で父子とも死亡記録のある室町幕府奉公衆の実力者の[[進士晴舎]]の息子・[[進士藤延]]が生き残り、改名して明智光秀になり、光秀の妹・御ツマキは義輝の[[側室]][[小侍従]]、[[明智光慶|光慶]]は小侍従が産んだ義輝の子である、と主張している<ref>{{Cite book|和書|author=小林正信|title=明智光秀の乱|publisher=里文出版|year=2014|page=134}}</ref>。
 
==== 細川藤孝と朝倉家との関係 ====