「アダルベロン (ランス大司教)」の版間の差分

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'''ランスのアダルベロン'''([[フランス語|仏]]:'''Adalbéron de Reims''', ? - [[989年]][[1月23日]])は、[[ランス (マルヌ県)|ランス]][[大司教]](在位:[[969年]] - [[988年]])。アダルベロー(Adalbero)とも。[[ロタリンギア]]の地方貴族[[アルデンヌ家]]出身。[[西フランク王国|西フランク]]王[[シャルル3世_(西フランク王)|シャルル3世]]の従兄弟の孫にあたる。[[メス (都市)|メス]]司教アダルベロンの甥。
 
== 生涯 ==
ロタリンギア修道院改革の中心人物であったゴルツェのヨハネスの弟子で、[[ロテール_(西フランク王)|ロテール王]]にランスの大司教を命じられてからは大聖堂の拡張・改修をおこない、聖堂に[[ステンドグラス]]を設置した。またランスの教会参事会員に規律を遵守させた。学問の振興も図り、司教座学校の教師としてオーリヤックのジェルベール(のちの[[ローマ教皇]][[シルウェステル2世 (ローマ教皇)|シルウェステル2世]])を採用した。
 
ロテールとその子[[ルイ5世_(西フランク王)|ルイ5世]]の[[カロリング朝|カロリング家]]と、[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]][[オットー2世 (神聖ローマ皇帝)|オットー2世]]や[[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]との抗争に際しては両者の和解を取り持った。しかし[[カロリング朝|カロリング家]]と[[ユーグ・カペー]]との抗争ではロタリンギア再征服を目論むカロリング家に反し、「王位は血統ではなく業績や武勇そして品格で選ばれるべき」としてカペー側にいた。
 
[[ルイ5世_(西フランク王)|ルイ5世]]の不慮の死でカロリングの血統が途絶えると、聖俗諸侯による会議においてユーグ・カペーが次の国王に推挙される。その際、にフランス国内の宗教界で権威あるランス大司教として、アダルベロンが意見の集約をとりおこなったとされる。[[987年]][[7月3日]]、アダルベロンがユーグに戴冠・聖別をおこない、ユーグはフランス王に即位した。同年[[12月30日]]にはユーグの息子[[ロベール2世_(フランス王)|ロベール]]にも共同統治者として戴冠した。