「フリードリヒ3世・ツー・ザルム=キルブルク」の版間の差分

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| 家名 = [[ザルム家|ザルム=キルブルク家]]
| 父親 = ザルム=キルブルク侯{{仮リンク|フィリップ・ヨーゼフ・ツー・ザルム=キルブルク|en|Philip Joseph, Prince of Salm-Kyrburg|label=フィリップ・ヨーゼフ}}
| 母親 = マリア・テレシア・ファン・ホール
| 役職 =
| 宗教 =
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== 生涯 ==
ザルム=キルブルク侯{{仮リンク|フィリップ・ヨーゼフ・ツー・ザルム=キルブルク|en|Philip Joseph, Prince of Salm-Kyrburg|label=フィリップ・ヨーゼフ}}とその妻でホール{{仮リンク|[[マクシミリアン・エマヌエル・ファン・ホールン|en|Maximilian, Prince of Hornes|label=マクシミリアン・エマヌエル}}]]の間の長女マリア・テレシア(1725年 - 1783年)の間の長男<ref>http://de.rodovid.org/wk/Sippe:Salm-Kyrburg</ref>。姉マクシミリアーヌはトゥアール公{{仮リンク|ジャン=ブルターニュ=シャルル・ド・ラ・トレモイユ|en|Jean Bretagne Charles de La Trémoille|label=ジャン=ブルターニュ=シャルル}}に、妹[[アマーリエ・ゼフィリーネ・ツー・ザルム=キルブルク|アメリー]]はホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯[[アントン・アロイス (ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯)|アントン・アロイス]]にそれぞれ嫁いだ。兄弟姉妹とともにフランス宮廷で育ち、フランス語名の'''フレデリック・ド・サルム=キルブール'''('''Frédéric, prince de Salm-Kyrbourg''')で呼ばれた。1783年の母の死により断絶したホール公家の資産を継承、[[北ブラバント州|ブラバント北部]]{{仮リンク|ボクステル|en|Boxtel}}のスタペレン城などを入手する<ref>http://www.vonhorn.info/</ref>。1782年から1787年にかけ、パリに私邸{{仮リンク|レジオンドヌール宮殿|en|Palais de la Légion d'Honneur|label=オテル・ド・サルム}}を建設した。
 
フレデリックは1780年代の[[ネーデルラント連邦共和国]]において、{{仮リンク|愛国党 (オランダ)|nl|Patriotten|label=愛国党}}の軍事指導者として重要な役目を果たした。神聖ローマ皇帝[[ヨーゼフ2世]]が1781年[[防壁条約]]を破棄したときは皇帝との交渉役を担い、続く1784年の{{仮リンク|やかん戦争|en|Kettle War}}に際しては軽騎兵8隊、猟兵2隊、歩兵6隊で構成されるライン軍団の司令官に就任した。ホラント州政府は軍団を維持するための給与の支払いを渋るが、愛国党の人々が募金によって軍団に給金を与えた<ref>Christiaens, W. & M. Evers (2002) ''Patriotse illusies in Amsterdam en Harderwijk'', p. 106</ref>。1787年5月12日、フレデリックは愛国党のために[[ユトレヒト]]を占領し、6月28日には{{仮リンク|ウールデン|en|Woerden}}に歩を進めて愛国党の憎悪の的であった総督夫人・オラニエ公妃[[ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン (1751-1820)|ヴィルヘルミーネ]]を逮捕した<ref>Knoops, W.A. & F.Ch. Meijer (1987) Goejanverwellesluis. De aanhouding van de prinses van Oranje op 28 juni 1787 door het vrijkorps van Gouda, p. 30, 63.</ref>。ヴィルヘルミーネの兄プロイセン王の派遣した[[カール・ヴィルヘルム・フェルディナント (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|ブラウンシュヴァイク公]]率いるプロイセンの軍隊がネーデルラントを侵略し始めると、フレデリックは戦わずして軍団を退却させ<ref>[[サイモン・シャーマ|S. Schama]], ''Patriots and Liberators, Revolution in the Netherland 1780-1813'', p. 129-30</ref>、愛国党の激しい批判を浴びた。フレデリックは姿をくらましたが、おそらく{{仮リンク|グルムバッハ (グラン)|de|Grumbach (Glan)|label=グルムバッハ}}の家領に住む弟{{仮リンク|モーリッツ・ツー・ザルム=キルブルク|de|Moritz zu Salm-Kyrburg|label=モーリッツ}}の許に身を寄せていたと考えられる<ref>Nieuwe Nederlandse Jaarboeken 1787, 5386.</ref>。1788年、パリに戻っていたフレデリックは、愛国党の指導的政治家{{仮リンク|ピーテル・パウルス|en|Pieter Paulus}}のパリ訪問時に面会を望むが、拒否されている<ref> Vles, E.J. (2004) Pieter Paulus (1753–1796) Patriot en Staatsman, p. 84.</ref>。
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自由主義者のフレデリックは、1789年の[[フランス革命]]の勃発を好意的に見ていた<ref>ブラン、P.311</ref>。1792年12月29日付けの[[国民公会]]宛て書簡に自らの領邦主権を放棄してフランス市民となる旨を表明<ref>ブラン、P.311</ref>、1793年3月にはザルム=キルブルク侯領がフランス軍に併合された。1793年1月の[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]処刑後、王党派は[[ルイ18世 (フランス王)|プロヴァンス伯]]を中心とするグループ<ref>甥のタルモン公[[アントワーヌ=フィリップ・ド・ラ・トレモイユ|アントワーヌ=フィリップ]]やその弟のラ・トレモイユ神父シャルル=ゴドフロワ(1765年 - 1794年)、愛人の[[ロザリア・ルボミルスカ|ロザリー・ルボミルスカ]]はこの派閥に近かった。ブラン、P.313</ref>と、王妃[[マリー・アントワネット]]を指導者と見なすグループに分裂したが、フレデリックは後者に属した<ref>ブラン、P.312</ref>。彼の属する王党派グループには{{仮リンク|ボニファス・ド・カストラーヌ (1758-1837)|en|Boniface de Castellane (1758-1837)|label=カストラーヌ}}侯爵、{{仮リンク|ヴィクトル・ド・ブロイ (1756-1794)|en|Victor de Broglie (1756–1794)|label=ブロイ}}公爵、[[アーサー・ディロン (1750-1794)|ディロン]]伯爵、[[シャルル・アレクサンドル・ダルザス・ド・エナン=リエタール|エナン公]]らがおり<ref>ブラン、P.312</ref>、彼らは{{仮リンク|シャルル・フランソワ・デュムーリエ|en|Charles François Dumouriez|label=デュムーリエ}}将軍の支持者だったが、デュムーリエが1793年4月にクーデタ未遂を起こして失敗すると、その共犯者として追われる身となった<ref>ブラン、P.312</ref>。
 
フレデリックは{{仮リンク|ヴィトリー=ル=フランソワ|en|Vitry-le-François}}に潜伏していたところを捕らえられ<ref>ブラン、P.312</ref>、その後は当局の監視下で生活していた。1794年2月13日、反革命派の容疑で逮捕・投獄される。7月4日、{{仮リンク|カルム監獄|en|Carmes Prison}}の収容者45人が当局によるでっち上げの陰謀を計画したと告発された。その中にはフレデリック、そして妹[[アマーリエ・ゼフィリーネ・ツー・ザルム=キルブルク|アメリー]]の愛人だった[[アレクサンドル・ド・ボアルネ]]子爵が含まれていた<ref>ブラン、P.89</ref>。2人は7月23日に[[ギロチン]]刑に処された。[[テルミドールのクーデター]]の4日前のことだった。
 
== 子女 ==
1781年11月29日に[[ストラスブール]]において、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯女[[ヨハンナ・フランツィスカ・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン|ヨハンナ・フランツィスカ]]と結婚した。彼女は妹アメリーの夫ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯[[アントン・アロイス (ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯)|アントン・アロイス]]の妹で、両家間の二重の縁組だった。妻との間には4人の子があった。
*フィリッピーネ・フリーデリケ・ヴィルヘルミーネ(1783年 - 1786年)
*フリードリヒ・ハインリヒ・オットー(1785年 - 1786年)